「森追放的なもの」が招くかもしれない「現代五輪」の終焉

高橋 克己

この表題で本稿をまとめて翌朝アゴラを見ると、池田信夫氏の「森喜朗氏を追放したポリコレ」がアップされていた。用語の定義が省けてまことにありがたい。「森追放的なもの」とはすなわち、「発言などの一部を切り取って独り歩きさせ、そこをポリコレで突いて発言者を排除する風潮」とでもいうべきか。

唐突に私事に転じて恐縮だが、古希を迎え塩辛の瓶の蓋を開けることすら難儀するほど非力な筆者も十代の頃には、柔道の市民大会で入賞したり、レスリング関東大会で無差別級の銀メダルを取り、インターハイや国体に県の代表として出場(共に初戦敗退だが)した過去もある。

当時の無差別級は73kg以上で、筆者は90kgだった。長崎国体のフリースタイルの優勝はプロレスで活躍した長州力(吉田光雄:山口)、グレコローマンは、モントリオール五輪74kg級で金メダルを獲った、後の国士舘大レスリング部監督、故伊達治一郎(大分)がすべて秒殺で他を圧倒した。

全日本柔道選手権は今も無差別戦だ。「柔よく剛を制す」や「小よく大を制す」は柔道の奥義であり、また醍醐味だ。が、67年と69年に岡野功が、72年には関根忍が共に80kgで優勝したのみで、それ以外はおおむね100kg超の重量級が制している。やはり大きな者が勝つ現実がある。

なぜこんな話を長々するかと言えば、一つは「現代五輪」の説明のためであり、もう一つはバイデン新政権が就任初日に署名した20通近い大統領令に「LGBTQ差別禁止」に関するものがあり、それがスポーツ界、とりわけ女子アスリートに大いなる懸念を惹起しているからだ。

モントリオール五輪会場(stefko/iStock)

伊達氏が金を獲った76年のモントリオール五輪で生じた膨大な赤字に同市が長年苦しんだように、この頃から大会が商業化して開催費が巨大化し、84年のロス五輪以降、金銭を提供する米国テレビ局などのスポンサーが開催時間その他に多大な影響を及ぼすようになった。この辺りからの五輪が「現代五輪」の意。

今回の「森追放」も、アメリカで放映権を持つ主要スポンサーのNBCが、公式サイトに森氏は「去らなければならない」と意見記事を掲載したことがトドメを刺した格好だが、これらスポンサーもその顧客たる一般市民の影響下にある。市民の多くはサイレントマジョリティーだが、ノイジーマイノリティーがSNSなどを駆使して素早く「世論」を形成し、これにメインストリームメディアが便乗して社会に多大な影響を与える構図だ。

そのノイジーマイノリティーの大のお気に入りがポリコレでありジェンダーフリーという訳だが、そこでバイデンが、連邦最高裁が昨年6月に下した「職場でLGBTQを性的指向・性自認に基づいて解雇することは違法」との判決に基づいて署名した件の大統領令が重要性を帯びる。

内容は「性同一性や性的指向に関係なく、全ての人は法律の下で平等に扱われる」、「子供達はトイレ、更衣室、学校のスポーツへのアクセスが拒否される心配をせず、勉学に励むことができる」などというもの。

性同一性障害(Gender Identity Disorder)とは、産まれ持った身体の性と、心の性(自分自身が自分の性をどう感じているか)が一致しない状態のこと。有り体にいえば、たとえ外見は筋骨隆々の男性でも、心が女性ならば女性のスポーツ大会に出場できるという訳だ。

当然問題が起きる。19年にサモアで開かれた重量挙げパシフィック大会で、元は男性でトランスジェンダー(以下、TG)のニュージーランド女子代表(41)が金メダルを獲得したのだ。国際オリンピック委員会(IOC)のガイドラインをクリアしている同選手は、東京五輪の同競技で金メダルの有力候補という。

これには女性関係者から、「IOCが目を覚ますまで、ここまで行かなくてはならないのは異常だ、と感じている」、「いろいろ変わると期待しているが、実際に変わるまで女性たちが犠牲になることが問題だ」との声が上がった。(参考:東京五輪、トランスジェンダーの女性選手はどうなる?BBCニュース)

ちなみにIOCのガイドラインとは、15年に制定された出場条件で、「性適合手術を受けていなくても男性ホルモンのテストステロンを1年以上、一定レベルに抑制できている」ことなどとされる。東京五輪もこのガイドラインを基に、元は男性のTG選手の、女性としての出場を認めている。

ところで、日本学術会議の問題で話題になった「科研費」に関する科研」なるサイトがあり、そこには「性同一性障害とスポーツ ~治療に伴う運動能力変化と競技スポーツへの参加~」というテーマに毎年100万円ほどの科研費が使われていると書いてある。

同サイトの「研究実績の概要」の記載を要約すれば次のようだ。

「前年までに、IOCが示しているTG選手や性分化疾患選手の競技参加基準のガイドラインと、競技会への実際の出場事例、および、それに対するスポーツ選手などの反応・批判などについて、事例の収集と検討とを行った」

「当初は、性別による体力差が性同一性障害の治療に伴い縮小することが、TG選手の参加を是認する上で最重要事項の一つと想定した。が、性別は勿論、同性同士でも体力差がある中で、単に体力差縮小をもって公平な競技条件が確保されると考えてよいのかなどの検討が必要であると考えられた」

「特に、種々の遺伝的、体質的個人差がある中で、テストステロン高値を示す女子選手の体力差のみがなぜ問題とされるのかを分析することが、TG選手の競技参加要件を検討する上で重要であると考えられた」

要するに「難しい問題」と言っている。スポーツ界女性関係者の「女性アスリートが抹殺される」との懸念も宜なるかな。ではどうするか、筆者のまじめな提言を述べよう。

今般、組織委の会長の座を追われた森喜朗氏は、従来、オリンピック選手とパラリンピック選手が別に開催していた凱旋パレードを、「一緒に」行うことを提唱して成功させた。筆者は冒頭の柔道やレスリングの話とこの森氏発案のオリパラ合同パレードに、TGのスポーツ参加問題を解決する鍵があると考える。

答えは二つ。一つの方法は、女性の競技にTGを参加させるのではなく、男性、女性、TG、そして障害者の区別を設けず、さらに体重別などもなくして、完全無差別で「一緒に」競技するもの。もう一つの方法は、男性と女性とTG、そして障害者を加えた4部門を設け、体重別や身長別も取り入れるもの。

筆者のお薦めはもちろん後者。その場合、障害者も部門の一つだからオリパラは「一緒に」開催にする。身長別はバスケットボールやバレーボールや走高跳などに設け、団体競技は平均身長ではなく、全員が175cm以下のクラス、190cm以下のクラスという具合にすれば、背の低いものも活躍できる。

他方、ポリコレやジェンダーフリー論者の方々は当然に前者を標榜するべきだろう。そうでなければご都合主義との誹りを免れまい。

今回の森追放受けて、来年の北京冬季五輪も話題の対象になっている。趣旨は、森発言を女性蔑視として追放に値するというなら、国際社会が新疆ウイグルでの所業をジェノサイドと認識する北京での五輪もボイコットに値する。森追放論者は北京五輪忌避を辞さず、共産中国をも批判せよというもの。

実に正鵠を射た論ではないか。こうして北京五輪は共産中国とその属国だけが参加する大会となり、またこの先、男女TGの一切の区別なく無差別で競われるようになる五輪を含む多くのスポーツ競技は、誰の興味も惹かなくなってスポンサーも去る。斯くて「現代五輪」はついに終焉するという次第。