アルプスの小国オーストリアに初めて訪れた時、知人から「この国はモーツァルトで成り立っている。彼がいなかったならば、この国の国家財政は大赤字で倒産しているよ。この国の予算のマイナス分は観光業で補填しているのだ」と聞いたことがある。もちろん、モーツァルトだけではない。ベートーヴェン、シューベルトといった大作曲家がオーストリアで活躍し、名曲を生み出していなかったならば、オーストリアは確かに厳しいだろう。
中欧を席巻していたハプスブルク王朝が消滅して以来、国土ばかりか、経済力も縮小したが、モーツァルトのおかげで、オーストリアは今日までなんとか国家を運営してきた。そのモーツァルトに対し、オーストリア国民は十分感謝してきたかというと、そうではなかった。モーツァルトを大歓迎したのはプラハの貴族たちであり、ウィーン市民は当初、モーツァルトの音楽が理解できなかった(オーストリア人はヨハンシュトラウスのワルツが好きだ)。モーツァルト自身、生誕地のザルツブルクに対していい思い出がなかった。
モーツァルトの出身国オーストリアは観光によって生きてきた。日本は東京五輪夏季大会を控え、観光立国をモットーに関係者は奮闘しているが、外国から旅行者が来なくなった場合、当然のことだが、大多数の観光業は一挙に危機に瀕する。中国発新型コロナウイルスのパンデミック(世界大流行)でどの国も現在、国境監視を強化する一方、不要不急の外国旅行を控えるように国民に呼びかけている。コロナ禍でどの国の観光業も大ダメージを受けている。
音楽の都ウィーンには毎年、多くの観光客が訪ね、モーツァルト・ハウス、国立歌劇場(オペラハウス)などを訪ねる。新型コロナ感染拡大前はウィーン市の中心街ケルントナー通りはドイツ人、中国人、ロシア人など外国ゲストで溢れていた。その彼らがこの1年以上、姿を消した。「中国人ゲストはマナーが悪い」と日頃悪口を言ってきたウィーン観光業界も、中国人旅行者が多くの外貨を落としてくれたお得意様だったことを知って、マナーの悪い中国人旅行者を懐かしく思い出している有様だ。
オーストリアは、国際原子力機関(IAEA)などの国連専門機関、石油輸出国機構(OPEC)、欧州安全保障協力機構(OSCE)など30以上の国際機関の本部、事務局が建ち並ぶ国際都市だ。ウィーン市は毎年公表される「最も住みやすい都市」のトップ10の常連だ。治安は他の欧州都市より安定している。国も観光業の拡大には力を入れてきた。観光はオーストリアの「国のアイデンティティ」となってきたわけだ。
しかし、状況は急転換した。ウィーン市内に外国人旅行者をターゲットとした5星ホテルがどんどん建てられて来た矢先、新型コロナの感染が広がってきたのだ。国立歌劇場の後ろにあるザッハー・ホテルは生き延びるために従業員を削減する一方、ザッハー・トルテ(チェコレート・ケーキ)の持ち帰りビジネスを開始し、少しは収入を挙げるために腐心している。懐に余裕のある外国人旅行者ならば、スワロフスキー製のクリスタルをプレゼントに買って帰るが、肝心の外国人旅行者が来なくなったので、スワロフスキー社は本社のヴァッテンを含む工場を整理、従業員の削減に乗り出している。
オーストリアの冬の観光の目玉はスキーだ。チロル州やザルツブルク州は世界に誇るスキー場があるウインター・スポーツのメッカだ。そのチロル州で南アフリカ発のウイルス変異種が広がり、隣国ドイツはチロル州への渡航を即禁止するなど、オーストリアのスキーリゾートは欧州のコロナ感染のホット・スポットと受け取られだした。スキー場経営者の中には閉鎖を余儀なくされるところも出ている。弱り目に祟り目だ。
観光業は平和な時代はいいが、今回のような感染病の拡大に遭遇すれば、その瞬間、ゼロになってしまう。新型コロナの影響で多くの労働者は職場を失っている。ロックダウン(都市封鎖)中だったオーストリアでは今月8日からショッピング・モールや美容院などの営業と学校の授業は再開したが、ウイルス変異種の拡大でホテルやレストランは復活祭(4月4日)が終わるまでは営業を再開できなくなった。多くのホテルやレストランは破産に追い込まれるだろう。失業者、時短労働者の数は100万人を超えるが、彼らの多くは観光業関連の職場で従事してきた人々だ。
昨年の復活祭(4月12日)は最初のロックダウンの時期と重なった。夏季休暇シーズンに入って国民は少し足を伸ばしたが、9月に入ると旅行帰りの感染者が増え、11月には第2ロックダウンとなった。そして束の間のクリスマスを楽しんだが、新年に入りウイルスの変異種の感染拡大で今年の復活祭も昨年と同様、教会行事もイベントも制限されるだろう。バチカンでも信者なしの記念礼拝となるかもしれない。コロナ禍の過去1年、欧州の国民は観光を断念せざるを得ない日々が続いてきた。いつまでこのような状況が続くのか、自信を持っていえる政治家は欧州にはいない。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年2月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。