「我執」を捨てれば日本と日本人が救われるかも知れぬ話

山本玄峰という臨済宗老師の思い出を弟子や信者が語る「回想 山本玄峰」(春秋社)がある。老師は1961年に96歳で遷化したが、終戦前後の日本に多大な功徳を施した。一つはポツダム宣言受諾、他は新憲法に関して。

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前者は田中清玄(戦前は武闘派共産党員。老師の法話で獄中転向)の回想にある。敗色濃い45年4月、老師は東条の後の首相を請われていた鈴木貫太郎と会い、「軍人だから」と渋る鈴木にこういった。

力で立つ者は力で滅び、金で立つ者は金で滅びる。徳で立つ者は永遠じゃ。一国の総理は世の中の善い悪いも知り尽くした人にしか務まらぬ。あなたのような素直な、正直な人は向かないが、こういう非常時こそ金も名誉も要らぬ尽忠無私の人がいるのです。

共に79歳の二人は「鏡の如く」ぴたりと合った。数日を経て鈴木に大命が降下する。8月12日、ポツダム宣言受諾の聖断が下るや、鈴木は老師に報告し、老師はその苦衷を察してこう激励した。

貴下の本当のご奉公はこれからでありますから、まずは健康にご注意され、どうか忍びがたきをよく忍び、行(ぎょう)じがたきをよく行じて、国家の再建に尽力いただきたい。

新憲法の方は、幣原内閣で法制局長官と書記官長を務めた楢橋渡の回想。46年のある日、清玄が楢橋を訪れ老師に会うよう勧めた。何度か老師を訪ううち、幣原が保守合同の猿回しをしている風刺漫画が朝日新聞に載った日、こう喝破される。

実は君が幣原を回しているのだろう。そんなことを繰り返しているだけではだめだよ。

後にGHQ民政局のホイットニー局長らと新憲法のことで秘密会合した際、「天皇を除けたい」という。そこで楢橋が老師を訪うと、「天皇の問題で来たな」といい、こう続けた。

天皇が政治に興味を持てば、詔勅を受けているんだと派閥抗争になる。天皇は政治から超然と、空に輝く太陽の如くしておって、その大御心を受けて眷々身を慎んで政治をすれば、天皇がおられても立派な民主主義国ができるだろう。天皇は空に輝く象徴みたいなものだい。

田中清玄は、老師が次のようなやり取りの中で「本土決戦や聖戦完遂は、我執にとらわれている」と述べたという。

44年1月、清玄は老師に「これから日本はどうするか」と問われ、「日本は戦争をやめるしかありません」と答えるが、老師は頷かない。三日目に気付いて、「日本は敗けて戦争をやめるしかありません」というと、老師はこういった。

そうじゃ、日本は大関だから奇麗に敗けにゃいかん。大関は勝つも綺麗、敗けるも綺麗、取的の様に勝負に拘っては大怪我をする。

誰もが敗けると気付いている戦争をやめろという訳か、世界の最高位にある日本なら、綺麗さっぱり「我執」を捨てられるはずと。が、煩悩まみれの筆者にはまだ判然としない。辞書に「我執」はこうあった。

1. 自分中心の考えにとらわれて、それから離れられないこと。我を通すこと。また、その気持ち。

2. 仏語。人には常住不変の実体があるとする、誤った考え。我見(自分だけの偏った見方や狭い考え)。

ネットに当たると「妙心寺」(老師は臨済宗妙心寺派大本山管長だったこともある)のサイトに、「我執の世界」について解説があった。*http://www2.saganet.ne.jp/namo/inahouwahyousi.htm

もっと生きたいと百歳まで生きても、その人は若死にである。いつ死んでもいいと、今日の一日を喜んで生きている人は、いつ死んでも天寿を全うした人である

長く生きたい、病気をしたくない、と思うのは人間の我執。それが命に対する執着であることが仏教の智慧で照らされる時、我執はなくならなくとも、どこかで死を受け入れていく、と書いてある。

玄峰老師も「自分が死んで二人以上が救われるならいつでも死んでやろう」と出家した。老師は「人に親切」、「己に親切」、「法に親切」たれと説いた。「己に親切」とは「自分に辛く接する」、つまり「我執」を捨てること。

「我執」を捨てる意味が少し解った気がしたところで、筆者の頭をよぎったのがコロナ禍をどう終わらせるかであり、「気候変動と反原発」であり、日本が取るべき対中政策だった。

進むべき途が実はほとんど明らかなこれらのいずれにも、日本と日本人は今、「我執」にとらわれて身動きができず、「聖戦を完遂しようとしている」のではあるまいかと思われた。

まずコロナ禍。26日の新規感染者は7日間の移動平均で1,020人。全人口の0.0008%に過ぎず、過去最多だった1月8日の7,949人でも0.006%。死者は同平均が66人、後者も2月10日の121人。重症患者も最高だった1月26日の1,043人から457人に半減した。

死者累計は7,826人(感染者の1.8%)で、70歳以上が88.3%(6,142人)を占め、40歳未満は19人。しかも死亡者がPCR陽性ならば、別の病気があってもコロナ死に扱われているという。季節性インフルエンザと比べどこが怖かろう。自殺など関連死や子供への影響の方がよっぽど大きい。

次に気候変動と反原発。CO2排出規制論者の多くが反原発なのは自家撞着だし、CO2増加と気温上昇に因果関係がないとの論もある。また、確かに10年前の東日本大震災で、福島第一原発の全電源こそ大津波によって喪失され、水素爆発で建屋が破壊された。

が、地震での破壊は軽微だったし、女川原発も無傷だった。しかも大震災後に原発の安全性は格段に強化され、今や多くの原発が安全基準を満たす。だのに再稼働している原発は34基中たった4基(全発電量の3%)。一体何を恐れて再稼働をためらうのか。

加えて、全発電量の33%を占める石炭火力はCO2排出が多いとますます肩身が狭いうえ、43%を占めるLNGは世界的な争奪戦で価格高騰だ。10数%しかない再エネも約半分は水力だし、お天気任せの風力や太陽光ときたら、中国製が世界市場を席巻している。

そこで対中政策。日本の20年12月の輸出入は、輸出6兆7062億円、輸入5兆9552億円で、中国向けが輸出1兆5567億円(23.2%)、輸入1兆5686億円(26.3%)と各々4分の1を占める。全体では7,510億円の黒字だが、対中では119億円の赤字だ。

赤字とはいえ日本の対中輸出品が日系現法で加工され、その配当や技術使用料が日本に還元されるから、むろん中国を軽視はできない。が、日本のGDP総額からすれば数%に過ぎないし、日本品や現地法人は中国にとっても欠かせまい。

つまり、ウイグルなど周縁民族などの不法で過酷な労働に支えられている中国品に、日本人が買い控えや制裁をするのを躊躇せず、よしんばそれが日本に悪影響を及ぼしても堪えよということ。これは不法な尖閣侵攻に武器を取って戦う決意とも通底する。何を恐れることがあるか。

少々牽強付会かも知れぬ。が、筆者はこれらの「恐怖」の根底に「我執」を捨てられぬ日本と日本人を見る。

民主主義国たる日本の政治家が、不作為や事なかれの「我執」に流れる責任の多くは国民にある。政治家も官僚も国民もみな「我執」を捨てて、玄峰老師の説く「法に親切」、「人に親切」、「己に親切」を志そうではないか。

国民が支持さえすれば、政府だって、新型コロナをインフルエンザ並みにするだろうし、CO2と電力料金の低減に資する原発再稼働も進めるだろうし、共産中国の不法もきっと撥ねつけるだろう。