龍馬の幕末日記58:いろは丸事件で海援隊は経営危機に

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

若き日の陸奥宗光 Wikipediaより

海援隊は、いずれは利益を出すはずだったが、とりあえずは、難しいので、隊員ひとりにつき5両の月給を土佐がが出してくれることになった。気前の良い後藤象二郎らしくずいぶんと豪気な金額だった。

このときのメンバーは、私の記憶では、土佐から沢村惣之丞、千屋寅之助、高松太郎、新宮馬之助、長岡謙吉、石田英吉、山本洪堂、中島信行、越前から渡辺剛八、小谷耕蔵、腰越次郎、越後から白峰駿馬、橋本久太夫、それに紀伊の陸奥宗光、讃岐の佐柳高次だった。このほか、水夫なども入れると50人以上の集団だった。

だが、すぐに資金がなくなったので、京都に出発するときには私の給料も別途、欲しいといって、渋る岩崎をくどいて50両を餞別ということでもらった。

こうして発足した海援隊だが、形式上は仕事の契約上の当事者は土佐藩だった。そういう意味では、現代で言えば、市役所の水道局のような企業体だったともいえる。だが、ともかくも、新鋭の洋式船を使っての海運業だから、パイオニア的な存在であり、岩崎が明治になって三菱を立ち上げるに当たっておおいに参考になったことは間違いない。

その海運業としての主力船舶は、あの大洲藩に買わせた「いろは丸(160トン)」だった。それを15日につき500両で借り入れて使わせてもらうことになったのだ。

そして、4月19日に長崎を出港し、米や砂糖を積んで大坂をめざした。ところが、24日の午後11時ごろに讃岐の箱ノ岬沖で紀州の明光丸(880トン)という大型船と衝突したのである。しかも、明光丸は一度後退したあともういちど前進してつっこんできたのである。

さっそく乗り移って船長の高柳楠之助に曳航を求めたが受け入れてもらえず、いろは丸は乗組員は無事だったが積み荷もろとも沈没してしまった。そこで備後の鞆の浦で交渉したが数日間の話し合ってもらちがあかず、明光丸は長崎で交渉を継続するとして出帆を強行した。

見張り仕官だった佐柳らが相手に斬り込むというのは抑えたものの、この損害を賠償してもらえなければ倒産しかないので、私自身も命がけの覚悟で長崎に向かった。

下関に立ち寄り、三吉慎蔵に万が一の場合のお龍の身の振り方など言い含めて、長崎に着いたのが、5月13日である。さっそくに交渉をはじめたが、紀州側はのらりくらいである。もっとも、向こうも当惑したのは、このような大型船舶同士の事故は本邦初でよるべき前例もなかったからである。

そこで、私は花街で「船を沈めたその償いに金を取らずに国をとる、国をとったらミカン喰う」などという俗謡をつくって町中で子供までに歌わせて世論工作をした。

私にとって幸運だったのは、後藤象二郎が長崎にいて紀州藩との交渉に乗り出してくれたことだ。

後藤象二郎 Wikipediaより

しかも、ああだこうだいっているうちに、紀州は薩摩の五代友厚に仲介を頼んだ。どうして私の側の人間に仲介させたのか分からないが、83526両余を10月中に払うと言うことで交渉が成立したのは、5月29日のことだった。

実はこのとき、積み荷として「金」があったといって賠償額をつり上げたのは、紀州がいくら卑怯だといっても良くないことだと反省している。

少し自慢できるのは、衝突の時に相手の航海日誌をいち早く抑えたことがひとつ、もうひとつは英国人などに聞いて「万国公法」を持ち出したことだ。今から考えても、ちょっと近代的な法律論議の嚆矢だったのでないかと思う。

ただ、メンバーは志士たちが主体だから、本当に商売をする才覚があるのは、私と陸奥宗光くらいで、それが、私の死後、速やかに組織解体に向かった原因だ。

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