人は大金を得ると、自分の人生に一切の言い訳ができなくなってしまう

黒坂岳央(くろさか たけを)です。 

「ああ、お金さえあれば本当にやりたい仕事をするのに…」「結婚をして幸せになれるだろうに…」

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この世の中は「お金がないせいで夢破れた」と言わんばかりの怨嗟で溢れていると感じる。お金がない時期に、筆者もそう思っていた。

だが、ビジネスオーナー、投資家に転身したことで、いくばくかの経済的余裕を得ることができた。そうなった後にはじめて気づいたことがある。それはお金には人生の不幸を消す力はあっても、幸福にする保証などどこにもないということだ。大金を得ることによって、「自分の真の力を試される試練」が課せられてしまう、そんなことすらあると考えてしまう。

「大金を得る=幸せ」とはいかないのは人生の面白いところでもあり、同時に難しいところでもある。

「お金がない」は人生の言い訳として機能する

批判を覚悟で言うが、「お金がない」という言葉は、ある種の「人生への言い訳」として機能していると感じることがある。

筆者は20代前半まで学力が乏しく、経済的に厳しい状況にあった。それでも「いつかは大学で勉学に励みたい」という夢を持っていた。

その後は苦心惨憺しながら大学に入学した。一年時には周囲が18歳の中、一人23歳という状況だった。5年の遅れを取り戻すべく、必死に勉強に励んだ。大学入学前から、卒業後の就活のことをずっと考えていた。

ある日、偶然に同じく遅れて大学に入ってきた学生との出会いを果たした。彼とは共通点も多く、親近感を覚えた。「経済的に困窮していたが、なんとか苦労して大学に遅咲き入学をした。頑張ったからには、このチャンスをムダにしてはならない」そう言って勉学へのアツい情熱を語ってくれた。だが、その後、わずか数カ月後に、彼が周囲の学生と一緒に連日バイトやパーティーなどで遊び回る姿を見るようになり、頻繁に講義をサボるようになった。そして、最後には学内で姿を見なくなった。風の噂では鬱になって退学したようだった。

直接、本人から話を聞いたわけではない。だが、筆者は彼と交わしたやり取りから、彼の心情が透けて見えた気がした。一発奮起して大学に入り、それまでの遅れを取り戻すべく努力をした。しかし、いざステージには上がれたが、入学後に何を頑張りたいかを見つけられず、自己嫌悪に陥り脱落したのだろう。

「大学にさえ入れれば人生が変わるのに…。」そう考える人は、大学入学までは頑張れる。だが、いざ大学生活が始まると、頑張れなくなってしまう人がいることをこの体験から学んだつもりだ。

夢を見る人、叶える人

世の中には夢を見るだけの人と、叶える人がいる。

お断りしておくと、筆者は夢を見るだけの人を下に見るつもりはない。ここで言いたいことは、「本人が夢を見ることそのものを望んでいる」そう思える状況も存在するのではないかと主張したいのだ。

筆者が知っている人に「定年後に仕事が落ち着いたら、目いっぱい勉強をして英語を使えるようになりたい!」が口ぐせの人物がいた。英語学習への意欲を語ってくれ、こちらもぜひ応援したいという気持ちにさせられる。だが、いざ定年を迎えて、勉強にフルコミットできる立場へ行くと、この人物はこれまで聞いたことのない話を始めた。

「今はまだその時期ではない」

「人間関係を充実させるのが先決だ」

あれこれと逃げ口上を使って、英語の勉強することを避けているように感じた。あれから随分と年月が経過したが、未だに英語のテキストは開かれることはないままだ。

夢を語るも、いざその夢へのロードに足を踏み入れると自らの意思で降りてしまったのだ。自分のナマの人生を歩むことを否定し、夢を追い続けるプロセスそのものに満足してしまうのだろう。 

大金を得た時から、人はナマの人生を歩むことになる

人は大金を得るとその時から夢が現実そのものになり、一切の言い訳ができなくなる状況へと追い込まれる性質がある。

「気の向かない労働をするせいで、本当にやりたいことに使う時間がない」

という人も、いざ大金が入って気の向かない労働を辞めた時、「本当にやりたかったこと」を見つけて、楽しむことは簡単なことではない気がしている。

「お金がないからモテない、結婚できない」

そう嘆く人はいざ大金を得た時には、自分自身が人を振り向かせる魅力があるか?を試されるだろう。大金を得た後、それでもなお、意中の相手を振り向かせられなかった時の絶望を想像し、立ち尽くしてしまう人も出てしまうのではと考えてしまう。

大金を得ることで、「幸せそのものを手に入られる」と錯覚しがちだ。確かに大金は不要なストレスを消し去り、人生の選択肢を広げる力がある。それは幸せなことなのかもしれない。だが、お金で不要なことを消し去り、ナマの人生を歩み始めた時、その人の人生が真に試される時が来るのではないだろうか。