バイデン発言「米国のネアンデルタール人」の波紋

ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は歴代教皇初のイラク訪問中で、6日はイラクのイスラム教シーア派の精神的指導者アル・アリ・シスターニー師と会見が予定されている。そこでその会見の意義について少し書こうと考えていた。その時、バイデン米大統領が3日、新型コロナウイルス対策のマスク着義務に反対する保守州の指導者たちに向かって「ネアンデルタール人(原始人)」と呼んだことに対して、保守派から「侮辱だ」という強い反発の声が上がっている、というワシントン発の外電を読んで、コラムのテーマを急遽、「米国のネアンデルタールの人々」に変更した。

保守派州指導者をネアンデルタール人と暴言を発したバイデン大統領(ホワイトハウス公式サイトから)

フランシスコ教皇とシーア派指導者との会見は、宗派間の融和を模索するものとして注目されているが、米国のマスク着用派とマスク反対派も一種の宗派論争のように見えるからだ。ローマ・カトリック教会とイスラム教シーア派の対話がアブラハムという同じ「信仰の祖」を有しながら難しいように、マスク支持者と反対者の融和もコロナウイルスという共同の敵に対峙しながら、喧々諤々の状況だ。後者の場合、バイデン氏が大統領就任直後に表明してきた「分断した米国」の再統合問題にも関わるテーマだけに重要である。

大統領選中も自宅の地下室に籠り、外出する時はマスク姿で有権者の前に出るなど、バイデン氏の場合、コロナ禍が発生して以来、一貫してマスク支持者だった。一方、トランプ前大統領はコロナ禍を軽く見ていた傾向があった。その結果というか、自身もメラニア夫人もコロナに感染し、病院の世話になった。退院後はトランプ氏もマスクを着用する機会が増えたが、バイデン氏のようにマスク信奉者ではなかった。

ところで、バイデン氏からネアンデルタール人呼ばわりされるマスク拒否者は何を考えているのだろうか。中国共産党政権の悪行を暴露し、中国発の新型コロナ感染の脅威を国民に訴える一方、その予防策のマスク着用には消極的というより、強い拒否反応を示す人々だ。

当方は外交、安保政策では共和党を支持しているが、コロナ対策ではマスク派を支持せざるを得ない。欧州で新型コロナの感染が広がり始めたころ、マスク着用に強く反対する国民がいた。「マスクはアジア人の文化だ」といった文化論争も飛び出した。しかし、新型コロナが欧州全土を席巻し、多数の死者が出てくる段階に入って、マスク反対派は後退していった。極右派と呼ばれる一部の人々だけが頑固にマスクを拒否し続けている。

マスクは他者に感染させないためのものだ。通常のマスクでは自身の感染防止にはならない。FFP2マスクの場合、自身も他者も感染防止に役立つ。ただし100%感染防止とはならない。コロナワクチンでもその有効性はファイザー・ビオンテック製のワクチンの95%前後が最高だ。100%ではないし、さまざまなウイルス変異種が出てきた今日、その有効性は揺れてきている。

100%確実ではないから、と言ってマスクの着用を拒否する人はバイデン氏からネアンデルタール人と呼ばれても仕方がないかもしれない。繰り返すが、100%確実なマスクも、ワクチンも現時点ではない。それを理解している人がマスクの着用に反対するのはもはや信念といわざるを得ない。その信念が宗教レベルまで昇華されることによって、マスクの着用云々は宗派間の論争となってしまう。その結果、早期の和解は期待できなくなる。

バイデン氏は公約の「分断した米国社会の再統合」と叫ぶが、それが難しいことが分かるために、ついつい激怒して「あなたたちはネアンデルタール人だ」と大統領として言ってはならない暴言を吐いてしまったのだろう。

米国社会の分断問題に言及したついでに、そのテーマについて少し考えたい。米国社会には誰でも夢を実現できるチャンスがある。アメリカン・ドリームを実現した多くの米国人が過去にも現在にもいる。その意味で「機会の平等」(Equality)は米国民主主義の中核であり、米国型資本主義社会の核だ。それに対し、ハリス副大統領ら民主党リベラル派は「機会ではなく、結果の平等だ」(Equity)と主張しているという興味深い記事を読んだ。「結果の平等」となれば、どうしても一部の少数者、特定勢力を恣意的に優先することになり、全体主義的傾向が帯びてくるという論考は大きくは間違っていないが、正論とはいえない。

前者の「機会の平等」は本来、残念ながら存在しないからだ。人間は生まれた時からさまざまなハンデイを背負って生まれてくる。外貌も経済力も異なった背景で生まれてくるから、人間のスタート・ポジションは平等ではない。だから、政府が関与し、その避けられない不平等を最大限是正するための補助政策などを実施するわけだ。すなわち、100%の「機会の平等」は魅力的なキャッチフレーズだが、実際は幻想であり、100%「結果の平等」を目指したら、その社会は社会主義的全体主義国家になる危険性が出てくる。考えられる唯一の平等は「価値の平等」だが、それは余りにも哲学的だ。

当方は上記の平等問題では米国の伝統的哲学、世界観、ウィリアム・ジェームズらが提示した実用主義(プラグマティズム)に基づいて考えるべきだと思っている。「機会の平等」を支援する一方、そこから生じる不平等性の是正を実施し、最大限の実証的、実用主義的結果が生まれてくる政策を施行すればいいのではないか。

例を挙げたい。世界に誇るウィーン・フィルハーモニー管弦楽団もオーストリア人演奏者を優先する不文律がある。実技・筆記試験をすれば日本人、韓国人の演奏家たちがオーストリア人演奏家たちを上回るケースが多いからだ。ウィーン・フィルといいながら、演奏家がアジア系演奏家たちで独占されれば難しくなる。国民の税金が投入されるウィーン・フィルだから、オーストリア人音楽家に一定数の割り当てを与えるわけだ。「機会の平等」でも「結果の平等」でもなく、実用・実際主義的判断が働いている好例だろう。

マスク派と反マスク派の宗派論争を克服するためには、実用主義的観点から、マスクの効用がコロナ感染の拡大防止に少しでも役立つならば、それを利用すべきだ。共和党と民主党の政策論争ではないので、その論争には敗北者も勝利者もいない。あえていえば、マスクの効用性が勝利者といえる。

バイデン氏が「分断した米国社会の再統合問題」を真剣に考えるのならば、党派性を撤廃し、共和党の政策が良き結果を生み出すならばそれを取り入れる、といった実用・実際主義的観点から政策を実行すべきだろう。それが出来れば、分断された米国社会の再統合という課題は、フランシスコ教皇がイラク訪問で演出する宗派間の融和より、はるかに実現性が高いはずだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年3月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。