日本にはもっと分断が必要なのか?:日本の分断

鎌田 慈央

近年よく聞く言葉のひとつが、「分断」である。しかし、筆者は日本人として分断というものを自分事として捉えることができていない。

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その感覚が間違っていないことを示してくれたのが、国際政治学者の三浦瑠麗氏が記した文春新書出版の「日本の分断」という本だ。この本は、三浦氏が2019年の参院選後に行った独自の価値調査なるものの分析結果を解説したものだ。

三浦氏によると日本は欧米諸国と比べて分断していないどころか、分断を必要としている国だとしている。

現在、欧米諸国は、大きな政府か、小さな政府かといった経済的な価値観に基づいた分断、又は移民の是非や、中絶問題などに代表されるような社会的な価値観を裂け目とした分断によって、社会は文字通り二つの勢力に分かれて衝突している。

しかし、日本には欧米諸国のような経済・社会的価値観による分断がなく、二つの価値観に対してある種のコンセンサスが得られているとしている。

日本の分断が顕在化しない理由の一つとして、筆者は日本社会の民族的、文化的な同質性の高さが原因だと考えるが、三浦氏によると、もっと大きな対立軸が日本国内で存在することが理由だそうである。

そして、その対立軸というのは、憲法と日米安保条約だと三浦氏は指摘する。言い換えるならば日本の外交安保政策が日本政治を分断し続けたものだとしている。戦後から一貫して憲法9条が認める軍備拡張の範囲、それに加えた日米安保の違憲性の是非などといった議論が、言論界や政治的議論の中心であり続けた。

三浦氏が指摘する分断は日本社会そのものではなく、政党間のものを指している。また、分断といっても半々に社会が分かれているものではなく、少数意見がはっきりしている分断だとも暗示している。

例えば、与党自民党と野党を見てみると、決定的な違いがお互いの掲げる外交安保政策にある。だが、与党と野党の議席の数は二分されておらず、圧倒的に自民党が国会で多数を誇っている。

そして、その理由は自民党が提示してきた外交安保政策が現実的だったからだと言えなくもないが、三浦氏の言葉を借りると、野党が「外交安保リアリズムを取る国民の多数」を取り込んでいないことが大きな要因である。

古くは社会党の非武装中立、最近は民主党政権に代表される外交問題における失策のせいで、野党は外交政策に疎く、非現実的なことを提言する傾向にあると国民に思われている。そして、核保有国に囲まれて、安全保障環境が厳しくなっていっていることが理解できている国民の多数はリアリスティック(現実主義的な)な外交安保政策を提示する自民党を支持する、いや、しなければならないと思い込んでしまっている。

つまり、外交安保政策を起点とした野党への不信が、自民党への消極的な支持を増大させていることが、三浦氏の分析から言えるのかもしれない。また、三浦氏は外交安保政策が票になるという他国では見られない現象が日本で生じていることを示唆している。

しかし、三浦氏は今の現状に満足しておらず、分断がないことによって社会問題に進展がないことを批判している。野党が非現実的な外交安保政策に拘泥する限りは、仮に社会問題に関して進歩的な考えがあったとしても、自民党に票を入れざるを得ない現状がある。そのため、野党が外交安保政策に関しては現実路線に走ることで、経済的、社会的問題を選挙における争点とするべきだと提言している。また、経済的、社会的問題に焦点があたり、社会に意見の対立、すなわち分断が生まれることで、それらの問題が解決されないことによって圧迫されている女性やマイノリティの地位が向上するというのが三浦氏の意見である。

だが、例えるなら、波風が立たない現在の日本に住んでいる身として、嵐を無理やり引きおこすこと、つまり分断を意識的に生むことは、どうしても身構えてしまう。その延長線上にある副作用を意識するからだ。

社会をより進歩的なものにする過程で、それに抗う勢力がでる可能性は否めないし、そうすることでパンドラの箱が開けられてしまい、目を覆いたくなるような混沌に直面するかもしれない。

しかし、虎穴に入らずんば虎子を得ず。三浦氏のような経済・社会問題に焦点が置かれること、それらの問題に関しての活発な議論を望む層は、分断を助長する嵐が引き起こす意図せぬ副作用を覚悟する必要があり、分断が永続的なものにならないように世論を説得していく必要がある。