報道ステーションが制作したWeb CMに批判が殺到している。本件は、典型的なミスコミュニケーションであり、メラビアンの法則により、視聴者は不快感を抱いたものと推察する。そして、自身の思いや考え、意図などを伝わるように伝えるコミュニケーションの方法について考えてみたい。
Web CMにおいて問題視されている箇所は、会社の先輩が産休明け後に赤ちゃんを連れてきたことを出演者が話した直後、「どこかの政治家が『ジェンダー平等』とかと、スローガン的に掲げている時点で、何それ、時代遅れという感じ」と発言した部分だ。
制作者は、本来であればジェンダー平等は実現されていてもおかしくない今日、それが未達成とは遅すぎだ、というような考えなのだろう。事実、報道ステーションの公式Twitterに投稿された「【今回のWeb CMについて】」という書面において、「ジェンダーの問題については、世界的に見ても立ち遅れが指摘される中、議論を超えて実践していく時代にあるという考えをお伝えしようとしたものでした」と釈明している。
Web CMはなにを言いたかったのか
森喜朗氏の発言を契機として、特に最近はジェンダー問題に注目が集まっている。制作者は、恐らくこのような問題意識が念頭にあるのだろう。そして、ジェンダー平等のフェーズについては、実行に引き上げることが早急に求められているにも関わらず、政治家はそれを掲げる段階に留まっていることに対して業腹なのだろう。
一方、CM出演者の発言からは、自身の周囲ではジェンダー平等が既に実現しており、今更それを掲げることは的外れで頓珍漢だ、と読み取れる。さらに、笑顔で話しているためか、どこか悦に入り、それを実現しようとする者を嘲笑するかのようにさえ感じる。
両者のジェンダー平等達成に対する共有前提に齟齬があるため、ミスコミュニケーションが生じている。また、出演者の言葉にジェンダー平等未達成に対する皮肉や揶揄の意味が込められていたとしても、文脈および出演者の表情や声のトーンからは読み取り難い。
ミスコミュニケーションはなぜ生まれるのか
それはメラビアンの法則により、言語・聴覚・視覚情報の三つに矛盾があったとき、人はそれぞれ7、38,55%の割合で影響を受けてしまうからだ。即ち、それらに齟齬があった場合、音声言語である発言者の言葉の内容そのものよりも、発言者の表情、仕草、声色などといった非音声言語の影響をより強く受けてしまうのだ。今回の動画は、出演者が視聴者に語りかける構図のため、不愉快さが増幅されたと思う。
本来、コミュニケーションとは、自己の考えを他者に伝わるように伝えることだと考える。その手段は音声言語と非音声言語であり、目的は相互理解を深めることだ。そして、先述したように、言語・聴覚・視覚情報に食い違いが見受けられた場合、人は非音声言語の方を重要視してしまう傾向にある。
それは、単に非音声言語を重視し、音声言語を軽んずるという安直かつ短絡的思考ではない。いくら言葉で訴えたところで、外見がそれに不相応なものであると、自己の考えが不正確な形で他者に伝わってしまい、大いなる誤解を与えることになってしまう。故に、このような状況下においては、両者の一致を図ることが求められる。
また、コミュニケーションは一人では成立せず、他者との間で交わされる音声・非音声言語の交じり合いのため、相手のことを考えて話す必要がある。そこにおいては、少なくとも伝える言葉は分かり易くし、結論を明確かつ簡潔に述べる必要がある。そのことで、相手の納得感や共感、合意を得ることができる。その目的を達成する手段としては、話の論理性、話の具体性、そして、語彙力が求められるだろう。
話の論理性、話の具体性、語彙力の重要性
一つ目の話の順序については、結論→理由(何故ならば)→例示(たとえば)→再度の結論(故に)という「PREP法(Point Reason Example Point)」がある。要は結論を最初に述べる意味であり、頭括型とも呼ばれる。
このような順序において、結論を裏付ける理由や例示といった根拠は、極めて重要な要素となる。それを効果的なものにするものこそ、二つ目の話の具体化だ。それは、修飾語や数値を用いることで、事実を把握しやすくしたり、説得力が増したりする。特に、正確なデータを用いることは、有効な根拠になり得ると思う。
三つ目の言葉の選択については、どれだけ言葉を知っているかが問われると思う。相手によって言葉を言い換えるということは、その言葉の類義語を把握しておく必要がある。また、相手に合わせた言葉の選択については、たとえば難解な言葉を用いたり、遠回しに思いを伝えたりすると、相手にその意味が伝わらない。反対に、あまりに平易な言葉を使ったり、ストレートに伝えすぎてしまったりしては、相手に対して失礼だろう。故に、言葉の選択に関しては、過ぎたるは及ばざるがごとし、ということだ。
どのような言葉を選ぶかは、論理的に話す際に最も気を配らなければならない要素と考える。それは、どんなに道筋立てて具体的に話そうとしても、それを形作る大本の言葉そのものの選択が上手くいかなければ、伝わるものも伝わらなくなってしまうためだ。その際は、相手の反応を見つつ、言葉を選んで話すことが必要だろう。
また、話の組み立てにおいて、理由、例示、再度の結論という各ステップにおいて、言葉の難易を調整してみることも良いのかもしれない。このように各所において言葉に強弱を付けることで、同じ言葉ではないものの、内容としては反復するので、その分だけより厚みのある内容を構築できるのではないだろうか。そして、相手に伝わる情報の質と量が増すと思う。
普段、ごくごく自然に行っているコミュニケーションについて深掘りしてみると、その難しさに気づく。それを克服するためには、実践あるのみだ。そして、コミュニケーションをとる際に独りよがりになっては、単なる演説会に過ぎない。やはり、話すときは伝える相手のことを慮ることが重要だ。
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丸山 貴大
聖学院大学政治経済学部政治経済学科所属 98年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、社会のことに関心を持つようになる。高校1年生の冬、小学校の先生が衆院選に出馬したことを契機に、政治に興味を持つ。主たる関心事は、憲法、安全保障である。