去る4月1日、韓国のソウル市が2032年夏のオリンピック(五輪)を北朝鮮の平壌と共同で開催する案を国際オリンピック委員会(IOC)に提出した。だが、同年夏の開催都市はオーストラリアのブリスベンが優先候補と決まっている。たちの悪いエイプリルフールと思っていたが、そうではないらしい。ソウル市は「スポーツを通じた世界平和というIOCのビジョンを実現することになる」と共同開催の必要性を伝えたという(ロイター通信参照)。
北朝鮮は本気で五輪を共同開催したいわけではなかろう。すべて政治(ないし軍事)工作活動である。韓国が北の工作に籠絡された格好だが、彼らにその自覚はない。もしあったとしても「平和の祭典」の名のもと、自己正当化している。
そもそも五輪は本当に「平和の祭典」なのか。たしかに「オリンピック憲章」(2016年版・公定訳)に「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである」と明記されている。
だが、それは1896年に始まった近代オリンピックの建前に過ぎない。元々そうではなかった。いわゆる古代オリンピックはギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事だった。
当時の競技種目はディアロウス競走(中距離競走)やドリコス競走(長距離競走)、ペンタスロン(五種競技)など。レスリングも紀元前668年の第23回大会から単独の競技として実施されてきた。
だが、当時は今と違い「時間制限はなく、勝敗が決するまでに長い時間がかかる過酷な競技だった」(JOCサイト参照)。同様にボクシングも「時間制限もインターバルもなく、たとえ倒されても敗北を認めない限り」続き、現在のようなグローブではなく「敵へのダメージを大きくするための」武具を拳に巻いての殴り合いだった。
第33回大会から、「パンクラティオン」という格闘技もオリンピック競技に加わった。ギリシア語で「パン」は「すべての」、「クラティオン」は「力強い」を意味する。「首を絞めることも許され、ボクシングと同じようにどちらかが敗北を認めない限りは勝負が決することのない熾烈な競技」だった。紀元前680年の第25回大会からは「戦車競走」も始まった。
現代の感覚からは、とうてい「平和の祭典」と呼べるような代物ではない。なのに、そう呼ばれるようになったのは、なぜか。
それは「宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければならなかった」からである。べつに「世界平和」云々とは関係ない。
いわば「平和の祭典」ならぬ「軍事の祭典」である。軍事の「事」は「祭事を行うことを示す」(白川静『字統』平凡社)。元々、宗教的な意味を持つ。「国家的な祭祀(祭り)をすることを事といい、『まつり』の意味となる」(白川静『常用字解』平凡社)。古代五輪の歴史を辿れば、「平和の祭典」というより「軍事の祭典」に近い。
近代五輪の歩みも例外でない。戦前(1940年・昭和十五年)に予定されていた東京五輪は、シナ事変(日中戦争)の余波を受け開催できなかった。先立つ1916年のベルリン五輪も第一次世界大戦により開催できなかった。
1936年のベルリン五輪はナチス・ドイツのもと、ヒトラーの祭典と化した。その後に続く「聖火リレー」もナチスの政治工作から生まれた。戦後の1980年のモスクワ五輪も、東西冷戦により、日米を含む多数の国々がボイコットした。
2008年の北京五輪は中国内外で抗議デモが相次ぎ、欧州の王族や首脳が軒並み欠席するなか、日米の首脳が開会式に出席した光景を、私は今も忘れない。来年の北京五輪でも同じ光景が再現されるのだろうか。
2014年のソチ冬季大会でもロシアの反LGBT法に抗議し、欧米の首脳らが開会式を欠席した。ソチでは、ロシア政府が米軍のGPS信号をかく乱させる軍事的な措置を講じた。日本人が好む「スポーツに国境はない」云々は戯言ないし建前でしかない。
振り返れば、1987年の大韓航空機爆破事件は「ソウル五輪の韓国単独開催を妨害する」北朝鮮の工作員(金賢姫ら)による犯行であった。
より分かりやすいのが、パラリンピックの歴史である。「1944年、イギリスのチャーチル首相らは、ドイツとの戦争激化により負傷し脊髄損傷になる兵士が急増することを見越して(略)マンデビル病院内に脊髄損傷科を開設した。その初代科長に(略)グットマン卿が任命された。(略)1948年7月29日、グットマン卿は(略)マンデビル病院内で16名の車いす患者(英国退役軍人)によるアーチェリー大会を開催。これがパラリンピックの原点である」(日本パラリンピック委員会サイト)。
ご覧のとおり、名実とも「軍事の祭典」ではないか。
・・・いや、それは違う、そう、みなが本気で「平和の祭典」だというなら、なおさら、北朝鮮や中国に開催させてはならない。平和の敵が開催する「平和の祭典」など、どう考えても、あり得ない。
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