学校の先生になりたい理由、子供が好きだから。ナチュラルだと思います。ところが好きとビジネスは違います。好きだと時間を気にせず、そのためにひたすら頑張ることができますが、果たしてそれが正しい方向を向いているかどうかは別の問題であります。教育をビジネスと捉えるのか、これまた疑義があるでしょう。特に教育現場にいらっしゃる方は一過言あると思いますが、クラス30数名を束ねれば凸凹が出来て当たり前でそれが人間の本質でもあります。ただ、偏差値や進学先のデータ、クラスメートの質が目につきやすい教育現場では凸凹が悪とみられることもあるかもしれません。
教育の向かうべき方向って何でしょうか?
小学生の成績表は概ね二段構えになっています。一つは学習の成績、もう一つが生活の様子です。我々が小中学生の頃は生活の様子はありましたが、さほど重視されなかったと思います。今ではかなり細かく分類された学校内での生活の様子について「満足できるところまで達成できたか」で印が付くようになっています。面白いのはできれば〇が付きますが、できないところは✖ではなく空欄になっている点です。つまり、できない子にできないという印象を与えないようにしています。
これだけの成績表を担任の先生がひとりで作り上げるのは正直、可能なのだろうか、と思っています。仮に成績表が作れたとしても学習にしろ、生活にしろその弱いエリアを個別指導で補正、補強することは可能なのでしょうか?個人的には金八先生でも無理ではないかと思うのです。
昔の学校はもっとストレートだったし、行きたい人だけが塾や習い事に行き、そうでなければ夕方まで学校の校庭で遊びほうけていたはずです。ところが管理の目は先生、学校、家庭というそれぞれ違うレベルで発展し、その温度差も生じ、先生はPTAから突き上げを食らわないよう腫れ物に触るような指導となりました。それでは教師があまりにもかわいそうであります。
ご承知の通り、小中学校も一人一台のコンピューター端末が支給されつつあります。ようやくだと思います。グーグル社が端末を広く広めるために100ドルパソコンを売ったのは2012年の冬です。なぜ、こんなに遅れたのかといえばパソコンを受け入れなかった先生方の姿勢があったことは否めません。そして先生はパソコン嫌いというのは統計でも出ています。OECDの調査で教員のIT機器導入に伴うその理解度に関するアンケートではOECDランクでびりであります。
これは何を意味しているかと言えば先生方は教育への自負が強いのだと思います。「べき論」とでも言いましょうか?寺小屋学習や江戸時代世界最高水準の識字率、平民まで学があったといった美談が歴史書の中でゴロゴロある中で従来の枠組みから抜け出せなくなっているのだろうと察します。
しかし、先生方の実態は残業、ブラックで挙句の果てに不埒な行為をするケースも散見されるようになっているのに教育委員会はそれを軌道修正するそぶりをみせません。いや、やっていたとしても非常に緩慢でそれゆえに教育水準では世界最高だった日本の凋落はあらゆるデータがそれを指し示しているのです。
個人的には日本の教育のやり方と先生の資質は学習を教えるよりも、道徳や規律を重視しているように感じます。ならば通信簿でいう学習の部分と生活の部分を切り離し、先生は生活の部分に特化すべきと思います。学習は誰がやるのか、といえばせっかく端末が入ったのですからオンライン学習をすればよいでしょう。先生が100人いたら100人が同じ科目を教えるのにその教え方はバラバラであります。先生もそれぞれ予習や準備をしなくてはいけません。ところが教員を何年もやっていると同じ事の繰り返しで工夫は次第になくなってしまうのです。つまり、学習部分に於いて先生が成長ラインに乗れなくなるのです。
子供たちがなぜ、塾に行かざるを得ないのか、なぜ、一部の地域で公立校を避けるのか、それはばらつきと先生への過剰な負荷が生み出した悲劇でもあります、東京都だけ見ても優秀なエリアとそうではないエリアの差が何処にあるのか、生徒の潜在的能力なのか、親の教育への姿勢なのか、教え方なのか、クラスの雰囲気なのでしょうか?そして先生はそれを与件としてもはや変えるというよりどうにか無事に終わらせたいと思うのなら最終的な不幸は生徒に降りかかります。
私は学習をIT化させるべきと思っています。生徒一人ひとりの能力見合いの教え方ができます。先生は補助だけすればよいのです。日本で一番教えるのが上手な先生の授業を全ての生徒が享受することも可能です。夢のような話ではないでしょうか?
もちろん、先生のプライドの問題が出てくるでしょう。しかし、ここは大きな改革を目指してほしいと思います。そして教育は国語算数理科社会という枠組みから越えなくてはいけません。ITが一つの科目になるそうですが、私はマネーだって学ぶ必要があると思います。SDG’sは誰が教えるのでしょうか?教育の分野はどんどん広がります。だけど担任の先生の能力に合わせたらそれは悲劇となってしまうのです。そこに気がつく時ではないでしょうか?
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年4月5日の記事より転載させていただきました。