建築家の安藤忠雄さんは昨秋、ある雑誌のインタビュー記事で次にように言われていました――日本人は闘わなくなりましたよね。主張しなくなった。1969年の東大紛争が最後かもしれない。昔はね、知識層が闘ったんですよ(中略)。70年代以降、経済的発展を遂げていく中で、日本のインテリからは闘いの姿勢が失われたように見えます。既に完成され、成熟した社会を引き継いだ世代はあえて闘おうとはしない。闘いに敗れて今あるものを失うことが怖いから。『いかに間違えないか』という減点法が物事の評価軸になっているんですね。だから根幹のシステムが壊れるような危機にひんすると思考停止に陥ってしまう。
私は、上記の知識層・インテリは「エリート」に換言できると思います。中国宋の謝枋得が編纂した『文章軌範』の中に、「一国は一人を以て興り、一人を以て亡ぶ」という蘇老泉の有名な言葉があります。凡そ人間社会の変革・進歩を齎す主体、あるいは文明・文化を作る主体は、大衆ではなく常に一握りの個人によるわけで、そのような意味で私はエリートと述べています。
アメリカ、イギリスはもとより、多くの国では国家がはっきりとしたかたちで将来の指導者となるエリート層を養成している。ところが、戦後の日本はこれを怠っている。アメリカ式教育に表面的に倣い、テクニカルなレベルで一生懸命になるばかりで、本当に必要な「指導者をつくりあげる教育」をまったく実施していないとさえ思う――之は昨年8月末のブログでも御紹介した、現在の日本及び日本人(取り分けエリート層)に対する故・李登輝さんの指摘の一つです。
例えば、嘗て7つの海を支配し「英国の領土に日没することなし」と言われ世界を制覇した英国は、今日でも人口も日本に比して半分程度にも拘らず、ある種の主導的役割を世界で果たしています。それは我国の教育システムの類ではなく、正にエリート養成の教育というものをある意味ずっと続けてきたからでしょう。概して英国のリーダーの多くは、イートン校及びそれと並び称されるハーロー校のようなパブリックスクールを卒業し、オックスフォード大学やケンブリッジ大学で学んで行きます。対して、そうした道に進むことなくして手に職つける人も数多います。20代の頃の私は、はじめ「蛙の子は蛙のような形にして、非常に閉鎖的な社会だなぁ」という印象を持たないでもなかったのですが、実際ケンブリッジ大学に留学し英国を身近に感じると「大学とは、エリートを育てる場所なんだ」という新たな印象を得るに至りました。
エリートを養成するは正に『論語』の「子張第十九の六」にある子夏の言葉、「博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う…博く学んで、志をしっかりと定め、疑問に突き当たったら機を逸せず人に教えを請い、現実の問題をじっくり考える」ということではないかと思います。エリートと呼ばれる人々は、歴史や哲学等の色々な古典を学ぶ中で様々に思索を重ね、人間としての教養を身に付け、知行合一的に事上磨錬する中で、エリート足るの条件を満たして行き、自分の恵まれた能力・手腕を発揮して如何に一般大衆を良き方に導いて行くか、と腐心し続けるのです。そして一たび事が起こったらば英国ではエリート程ずっとnoblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)で、先の二つの世界大戦でも最前線で自らの生命を投げ打って行くというところがあり、だから社会できちっと尊敬もされてきた部分があるわけです。
冒頭挙げた引用記事は『安藤忠雄氏「日本の停滞は、インテリが闘わないから」』と題されたものですが、社会変革の主要な役割を担うエリートが我国で育っていないが為に、このような議論も出てくるのではないかという気がしないでもありません。我々は一国において此のエリート層を如何にして厚くし様々な分野で国民を導いて行くことが出来るか、といった観点からも日本の教育体制の在り方を考える必要があろうかと思います。生前の李登輝さんの言われるところに拠れば、「かつての日本のエリート教育は、教養を非常に重んじ、品格を重視するものであった。歴史、哲学、芸術、科学技術など各方面を学習することで総合的な教養を育成し、ひいては国を愛し、人民を愛する心を備えさせようとした。そのために読書、なかでも古典を読むことを学生たちに求めた」とのことです。
あるいは与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」に、「友を選ばば書を読みて、六分の侠気四分の熱」という一節がありますが、哲学や歴史などでも昔はそうしたレベルの書を読んでいたわけです。ナンバースクールへの進学者は当時ある面で非常に限られていた中で、そのエリート達が国を引っ張り列強の一国となって、例えば日清・日露の戦いでも主導して勝利を収めることが出来たのです。但し第二次世界大戦に至るに及んでは、世界観も歴史観も間違ったものしか持っていなかったようなエリート足らざる人間により、現下のミャンマーの如く軍が武力を行使して大衆を支配して行くといったものしかなかったような気がします。
停滞なくして成長し続ける国も、成長なくして停滞し続ける国も、歴史を見れば余り無いでしょう。そこにはやはり、「大道廃れて仁義あり。智慧出でて大偽あり。六親和せずして孝慈あり。国家昏乱して貞臣あり」、という老子の世界があるわけです。私自身は必ずしも、日本が停滞しているとの認識を有してはいません。勿論、世界の中での我国の経済力や科学技術力等の低下を指摘する向きはありましょう。しかし日本人一人一人を見て行くと、然程怠けているわけでもなく皆一生懸命に頑張ろうとしています。私は、そこは間違いないと思っています。
国家のエネルギーや活力というものは突き詰めれば、その国の有する人間力に尽きるものです。取り分け、国家のリーダーとなる層にどれだけの人物がいるかに掛かっていると言えましょう。エリート層に人材が輩出された時は国が最も強くなり、大いに発展する時期となるわけです。従って日本が仮に停滞をする、進化して行けない、あるいは進化の速度が遅いのだとすれば、その最大の理由はエリートが育っていないということにある、と私は思います。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年4月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。