あの天文学者ガリレオ・ガリレイが地球静止論を否定し、地動説を主張した時、神の創造説をもとに天体が地球の周囲を回っていると主張してきたキリスト教会は文字通り、これまで強固だった足元が崩れ落ちるのを感じただろう。
▲「科学と宗教」の関係について考え続けたアインシュタイン(ウィキぺディアから)
ガリレオの地動説は中世までの神を中心とした世界観が崩壊する最初の打撃と受け取られている。その後、第2、第3のガリレオが出現し、神の創造ではなく、森羅万象が進化しながら存在しているという世界観が近代に入り定着してきたと受け取られてきた。故ヨハネ・パウロ2世は1992年にはイタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイの異端裁判の判決(1632年)を「教会の過ち」と認めている。カトリック教会では1633年のガリレオ異端決議から1992年のガリレオの名誉回復まで359年の歳月がかかった。
換言すれば、ルネサンス、啓蒙思想が広がり、「科学」が「宗教」を凌駕する時代に突入していったわけだ。「宗教」が博物館入りするのは時間の問題と受け取られてきた。実際、ついこの前までそのような雲行だった。
ところで、科学者たちの間に無神論者が急増してきた、というのならば、論理的な結論だが、現実はそうではない。大多数の一流科学者たちは神を信じてきているというのだ。科学者の公式に間違いが生じたのだろうか。それとも科学者が構築してきた様々な公式をスーパー・コンピューターで計算した結果だろうか。どうやら、後者のようなのだ(「大多数の科学者は『神』を信じている」2017年4月7日参考)。
ドイツの物理学者で量子論の創始者、マックス・プランクは1944年、「すべての物質はある種の力の影響下でのみ創造と存在ができる。この力は一つの原子粒子を振動させ、最も微小な『原子太陽系』を支えている。この力の背後には意識を持つ、知恵の心が存在することを仮説しなければならない。この心こそが全ての物質の母体であるのだ」と述べている。
ただし。神の存在を肯定する多くの科学者は宇宙の究極を「神」という宗教用語を使わず、宇宙森羅万象を主導する自然法、第一原因、エネルギーといった表現を好む。共通している点は、この宇宙がサイコロを振るように偶然に出来上がったものではなく、なんらかの意思を有する存在がいるということだ。自然界、宇宙をこの地上で駆使する方式で観測できるという事実はそのことを裏付けているわけだ。宇宙の観測性だ。
これまで敵対してきた科学の世界が20世紀以降、宗教の世界を崩壊させるのではなく、宗教界がこれまで唱えてきた「神」、宇宙の意思を間接的ながら証してきたのだ。驚いたのが宗教界だ。これまで科学の激しい攻撃に弱々しく反論をしてきた宗教界が俄然、生き返ってきた、と書きたいところだが、現実はそうなっていない。神の存在、神が存在するか否かは宗教者の努力の結果ではなく、皮肉にも科学者の貢献でほぼ実証できたが、新たな問題が表面化してきたのだ。その自然法を操る第一原因が人格を有する存在か否かという問題だ。
近代にかけ、多くの科学者、思想家、宗教者から、自然災害に遭遇し多くの人々が犠牲となる時、神はなぜ彼らを守らないのか、神はその時、何処におられたのか、といった「神の不在」を嘆く声が溢れた。例えば、リスボン大震災(1755年11月1日)は多くの思想家、知識人を悩ました。ヴォルテール、カント、レッシング、ルソーなど当時の欧州の代表的啓蒙思想家たちはリスボン地震で大きな思想的挑戦を受けた。また、ナチス・ドイツ政権で600万人の同僚を失ったがユダヤ人はアウシュビッツ後、「神はその時、どこにおられたのか」と神への嘆きが聞かれた(「大震災の文化・思想的挑戦」2011年3月24日参考)、「アウシュビッツ以降の『神』」2016年7月20日参考)。
表現を変えると、「神は存在するか」云々は科学の発展で一応、解決の見通しがでてきたが、「神は愛の存在か」の問いが前面に出てきたのだ。欧州の代表的神学者、オイゲン・ドレーベルマン氏はスイスのメディアとのインタビューの中で、「私の神は宇宙を創造した旧約聖書の神ではなく、新約聖書のイエスが説く神だ」と説明している。この発言は示唆に富んでいる。神は単なる創造主であり、創造後の世界にはタッチしない存在か、神は愛であり、創造した世界に強い関心を有した存在かの問いかけだからだ。
アブラハムから始まった唯一神教の「神」は創造主であり、秩序と契約の神というイメージが強い。一方、ギリシャ神話では「神」は太陽の神、美の神といったように一定の役割とパーソナリティを有した神々の集団だ。人類は無意識に、神を創造主とすると共に、神にパーソナリティを付与し、「愛の神」だけではなく、「美の神」、「戦いの神」といった多様な神のパーソナリティ(人格神)を生み出してきたわけだ。
ガリレオ・ガリレイから始まった科学の歴史が第一原因を証明することにあったとすれば、宗教者の課題はもはや神の存在論の証明ではなく、その第一原因が「愛ある存在である」ことを証明しなければならないわけだ。
ちなみに、事実と究極的な目的を区別するドイツの理論物理学者アルベルト・アインシュタインは、「宗教のない科学はまっすぐ歩くことができず、科学のない宗教は行き当たりばったりである」と表現する一方、「宗教と科学の領域の間に今日存在する対立の主要な源泉は、この人格神の概念にある」と述べている(芦名定道著「ティリッヒとアインシュタイン」―人格神をめぐって)。人類は、人格神から脱皮すべきか、それとも人格神を実証的に発見できるかの大きな分岐点に立たされている、といえるわけだ。
アインシュタインは「科学と宗教」というエッセイの中で、科学と宗教の関係を以下のように美しく記述している(上記の著書から)。
「目的を規定するのは宗教かもしれないが、宗教は、どの手段が自らの設定した目的に到達するのに寄与するかについて、もっとも広い意味において、科学から学ぶことができる。これに対して、科学は真理と理解への熱望を徹底的に吹き込まれている人々によってのみ創造されうるのである。しかしながら、感情のこの源泉は宗教の領域から由来する」
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年4月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。