忙しい社会になったせいか、人々はどうしてもせかせかしているように感じます。もちろん、そこには自分も含まれます。時折、人と話をしていたり、会議などで「で、結論は?」と答えを促すシーンに出くわすことがあります。私も言われたことがあります。このブログでも第一節目で結論を述べてから説明に入れと言われそうです。
しかし、私のブログは裁判の判決シーンではないのです。傍聴席に陣取った記者が二人いて一人は主文が出た瞬間に外に出て、結果だけ報じ、もう一方は判決理由まで全部聞いて裁判の全容を後程報道することがよくあります。勝つか、負けるか、確かに大きな意味があります。ただ、そこに至る過程にも大きな意味がありますが、忙しいことを理由にしてすっ飛ばすことが日常的になっています。
大河ドラマ「青天を衝け」を見ていて思ったことがあります。主人公が人から何か言われて簡単に「そうなのか」とあっさり考えが変わってしまうシーンです。なんとなくそんなところが既に数回あったような気がするのですが、それはあまりにも端折り過ぎていないか、と思うのです。
私は司馬遼太郎文学にはまっています。彼の8巻も10巻もあるような小説、しかも1巻が500ページぐらいあり、内容が濃いので東野圭吾氏の作品のようにするすると読むことはまず不可能。ただ、驚くことに彼の作品を読むと何年経っても忘れないのです。
理由は司馬氏の小説の組み立て方にあります。小説は普通、その話が時を追って進むものです。ところが、司馬氏は突然、現代の話になったり、作者の感想が入ったり、あるいは過去の事例(例えば幕末の小説に突然、義経が出てきたりする)を挿入し、振り回すため、記憶を植え付けやすいのだと思います。もちろん、丁寧に読まないと絶対に訳が分からなくなるというトリックもあります。
司馬氏はいろいろ切り口を変えることで小説本体の論拠の正当性を訴えているようにも思えるのですが、それゆえに小説ではなく論理的展開という点でなぜ、そうなったのか、を追求していく歴史書だと思えばへたな裁判の判決理由より面白いのであります。そこには答えに行きつくまでの過程が示され、本質的な面白さがあると思うのです。
司馬遼太郎の長編小説を読み切るのに必要な時間はざっと4、50時間ぐらいだと思います。NHKの大河ドラマを1年間視聴し続けると40時間ぐらいだと思います。しかし、残るものが違います。何か、といえば大河ドラマは大衆芸能なのです。誰が見ても面白いと思わせるため作品にエンタテイメント性を持たせるかわりに作品の深掘りには妥協せざるを得ないのです。
では1年を通じて同じ時間だけかけるなら大河ドラマを見るのがよいのか、司馬遼太郎の長編小説を一本、読み切るのがよいのか、といえば私は後者をとります。それは余計な演出はいらない、エッセンスの絞り込みで高いレベルで追求し続けたいという気があるのだと思います。
今日は大河ドラマを例にとりましたが、多くの小説が映画化や連続ドラマ化されています。それがとても上手にできている作品もあります。原作よりすごいというものあります。「半沢直樹」なんてその典型でしょう。しかし、概ね映像化するということは読めば10-20時間かかるものを2時間に圧縮するのでストーリーの荒さはどうしても目についてしまいます。
私が未だに本を読み続けるのは行間に見える著者の言葉は読者それぞれに訴えるものがある、と思っています。つまり、読み手によってその受け止め方は様々。しかし、映像化された時点で非常に一般的で目指すストーリーが不自然なほど出来上がってしまっているのです。
知識欲を追求し始めると「なぜ、なぜ」ばかりになります。答えを与えられて「そうなんだ」という生き方よりもっと能動的に知りたいと思う気持ちがこの年齢になってより旺盛になってきたことはうれしいことだと思っています。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年4月11日の記事より転載させていただきました。