日本統治時代の台湾で感染症対策に使われたマスク --- 陳 力航

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※(編集部より)この記事は、台湾人歴史学者、陳 力航氏が執筆し、林 篤志氏が翻訳した記事です。

新型コロナウイルスが拡大し始めた昨年春、日本では市民が感染予防のためにマスクを求めて薬局など販売店舗に殺到し、長蛇の列を作る様子が見られた。日本で一時的にマスク不足が深刻化する中、台湾では日本より早くマスクの供給網を整備し、強固な新型コロナ対策を実施した。昨年1月末には医療用マスクの輸出を禁止し、2月上旬には健康保険証と紐付けた実名制での販売を行った。

旧台湾総督府庁舎:Wikipediaより

新型コロナ対策において一定の成果を残した台湾において、日本統治時代(1895~1945年)は近代医療システムの構築に重要な時期であった。植民地経営の一環ではあったが、台湾総督府は数々の医療、衛生面における政策を実施。台湾の医療、衛生の環境は大幅に向上した。今回は日本統治時代の台湾で、感染症予防のためにマスクがどのように扱われたのか?そして、当時の価格や材質などマスクがどういった物だったのか見ていきたい。

日本統治時代の台湾有力紙「台湾日日新報」には、幅広い時期にわたりマスクに関する投書やニュース、漫画での紹介がある。1941年(昭和16年)11月の同紙には「マスクの用ひ方」という記事があり、「人混みの中、塵埃の舞っている場所、自分が咳をしている場合には非常によい」と紹介している。同年1月には厚生省予防局の職員によるコラム「マスクと健康 掛けるのは流感だけ」で、職員が「マスクの効用はインフルエンザのウイルスを防ぐことと、喉を冷やさないことだ」としている。

感染症が流行し、実際に当局がマスクを感染対策に利用した事例もある。1941年(昭和16年)1月、台湾南部の高雄市で1週間に6例の髄膜炎患者が発生し、市衛生当局を震撼させた。髄膜炎菌による髄膜炎は飛沫感染する。髄膜炎の患者は過去1年に1例あったのみで、市衛生当局はただちに市民に外出時にマスクを着用するよう呼びかけた。

今でいうところの「3密」対策も施していた。高雄で流行した6年前の1935年(昭和10年)3月には、台北で髄膜炎の感染が発生した。台湾日日新報によると4人が感染し、そのうち3人が死亡したという。感染を受けて、地元当局は防疫措置を行い、台北北署管内では映画館や芝居小屋の入口で紙製のマスクを来場者に提供。台湾北東部の宜蘭郡警察課は、劇場の営業者に対して全ての観客にマスクを着用させ、拒否した場合は強制的に退場させる措置を取った。

日本統治時代の台湾人医師の日記には、日常生活の中でマスクを着用する場面の記録がある。南部、台南の医師呉新栄(1907~1967年)の1939年(昭和14年)1月の日記には、寒い天候の上に体調が風邪気味だったため、「朝、服を何枚も着重ね、マスクを着けて人力車に乗り往診に向かった」とある。マスクを着けたのは、防寒と風邪を他人に移させないためだったようだ。

では、日本統治時代の台湾で使われていたマスクは一体、どのような物だったのだろうか。現代の私たちが使っているマスクと何か違いはあったのだろうか。

当時使われていたマスクには、紙製のほか、毛織製や皮製があった。台湾の商店と協力関係にあった名古屋の「中島商事」のマスクカタログ(1934年、昭和9年)では、効果として防寒や保温、衛生のためなどを挙げている。販売している毛織製マスクは2種類あり、一つは耳当てがついたもので価格は90銭。現代で見ることはほとんどない、口元から耳まで覆う形の毛織製マスクは60~95銭だった。

皮製は人工皮が58銭~1円20銭、トータルレザーは最も高くて1円80銭で、マスクの形は現在とさほど変わらないものだ。どちらも「防寒マスク」と銘打っている。物価に関しては、当時の宜蘭公学校の「訓導」(小学教諭に相当)の月収が40~70円だったことを参考にしていただきたい。

感染症に対処するため、マスクを活用してきた日本統治時代の台湾当局。昨年以降、新型コロナウイルスに立ち向かうために軍を使ったマスクの増産、マスクを販売する薬局がわかるアプリケーションの制作など、多くの取り組みを実施してきた台湾政府の姿と重なるところも多いのではないだろうか。

陳 力航
台湾の中央研究院民俗学研究所研究補佐。1986年、台湾北東部の宜蘭県生まれ。政治大学台湾史研究所の修士課程を経て、東京大学大学院に外国人研究生として留学。日本統治時代の台湾医療史、台湾人の海外活動史が専門。

林 篤志
新聞記者。1995年、愛知県生まれ。東京大学文学部卒。在学中に国立台湾大学へ留学した。東洋史学を専修し、特に日本統治時代の台湾について研究。