蒙古史を知らずに中国を理解できない①:蒙古人とは

最近、刊行した「日中韓三国興亡史」(さくら舎)では、実質的には「日中韓蒙四国史」といってよいほどモンゴルのことが出てくる。モンゴルという民族とその国家を理解しないと、韓国のことも、ウイグルやチベットのこともモンゴル史を知らないと理解できないし、浅薄な議論になる。

八幡さん著作

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そこで、三回ほどに分けて、モンゴルとはなんであるか、どういう意味をアジア史において持つのかエッセンスを紹介したい。

鮮卑や契丹もモンゴル民族と理解したらいい

モンゴル族は、北魏を建国した鮮卑や契丹(遼)に近い部族で七世紀あたりから存在が確認されているが、鮮卑や契丹が漢民族化したのちも遊牧民として留まった集団である。

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中国語はチベット語やビルマ語、さらにはタイ語にも近い南方系の言語だが、万里の長城の北側には、かつてアルタイ語族などと呼ばれた、モンゴル語、テュルク語、満州語など、さらには、朝鮮語もそれに近い「北方系」の諸言語の民族が分布する。

もともとたくさんの言語があったのだが、書き言葉として確立され、近代まで残ったのがモンゴル語、テュルク語、満州語の三つだ。

それは言語としてという意味で、たとえば、匈奴のDNAが絶滅したのではないわけで、彼らの子孫はモンゴル族やテュルク族や漢民族のなかに紛れ込んでいるのである。

モンゴル語に近いのは、北魏を建てた鮮卑とか、契丹(遼)の言葉だったようだ。匈奴はテュルク系かモンゴル系か議論がある。西洋史に出てくるアッティラのフン族も、テュルクなのかモンゴルなのか、それ以外か不明だ。

いずれにしても、私は鮮卑や契丹はモンゴル系だという理解でいいと思う。そのうち鮮卑などは隋や唐のときに支配階層になって、ほとんど漢民族に吸収されたわけである。

そして、鮮卑に変わってモンゴル系の代表として万里の長城の南側にまで進出したのが契丹で、北宋に対して優位にたった(燕雲16州)。

ところが、契丹は女真族の金が宋と組んだことで挟み撃ちにされて滅ぼされてしまった。しかし、女真族は狩猟民だったのでモンゴル高原の草原には興味がなく空白地帯ができたので、狭い意味でのモンゴル人が発展したのである。

チンギスハンは、現在のモンゴル北東部で生まれ、ケレイト、ナイマン、オングト、オイラトなどの部族を服属させて、一二〇六年にイェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル帝国)を創建した。

そして、チベット系に近い西夏(甘粛省の北に広がる寧夏回族自治区銀川)、金の北部、契丹の残党である西遼(現在のキルギス共和国あたり)、ホラズム(中央アジア西部・イラン。首都はトルクメニスタン国内)まで征服して陣没した。

なぜ元朝は長続きしなかったのか

モンゴルは、金から奪った華北の平原を、漢民族の農民を追い払って遊牧地にしようとしたが、遼の遺民で金の首都だった北京を征服したときに捕らえて家臣とした邪律楚材らの意見を入れて、農民を支配することに方針を変えた。

その後、金を滅ぼし、南宋攻略のために雲南省にあった大理国(937~1253年)を降伏させた。さらに、南宋も滅ぼして、中国を統一した。その過程の内紛で、中央アジアやメソポタミア、ロシア方面の同族とは疎遠になった。

元の統治は経済開発には見るべきものがあったが、蒙古人、色目人、漢人(金の遺民)、南人(南宋の遺民)という階層によって差別がされ、科挙を廃止したりしたので、行政機構がうまく動かなくなった。元朝が約一世紀という短命で終わったのは、場当たり的な「政治主導」に終始した報いである。

フビライ以降の皇帝は暗愚で、フビライの死後、四十年ほどで明によって万里の長城の北へ追われたが、短命であったが故に漢民族化が不完全だったので、遊牧民に戻るのは容易だった。漢化されて王朝が滅びたあと、漢民族に吸収して消えて亡くなった鮮卑や匈奴、あるいは満州族などの諸民族との違いである。(それ以降の歴史が大事なので次回をお楽しみに)