バチカンニュース独語版で日本のカトリック教会の動向が報じられることは非常に稀だ。フランシスコ教皇の訪日(2019年11月23~26日)の時は流石に多くの記事が掲載されたが、それが終わって普通の日々に戻ると、日本のカトリック教会関連の記事は皆無に等しい。
ところが、3日、バチカンニュースの国際欄に日本カトリック教会司教会議からの声明文の内容が掲載されていたのだ。記事のタイトルは「Japans Bischofe sehen Bau neuer Militarbasis kritisch」だ。見出しだけでは何のことか分からなかったが、どうやら沖縄辺野古新基地建設に対し、日本カトリック教会司教会議「日本カトリック正義と平和協議会」が批判の声明文(4月20日)を出したことが分かった。
少し、その声明文の内容を紹介する。日本語では「辺野古新基地建設に、沖縄戦犠牲者の遺骨が収集されないまま眠る沖縄本島の土を使わないでください」と少々、感情的な思い入れの入った見出しだ。声明文の宛先は、内閣総理大臣・菅義偉様、防衛大臣・岸信夫様、沖縄県知事・玉城デニー様、そしてカトリック信徒の皆様となっている。
「アジア・太平洋戦争末期、沖縄は『本土の捨て石』となり、激しい地上戦が行われ、20万人以上の方々が亡くなりました。沖縄にはその時の犠牲者の遺骨が2822柱、今も収集されないまま、土中に眠っています。いうまでもなくそこには、日本軍兵士のみならず、米軍兵士、朝鮮人日本軍兵士、子どもを含む大勢の民間人の遺骨も含まれています。特に激戦地となった沖縄本島南部地域から数多くの遺骨が集中して発見されています。ところが現在、辺野古の米軍新基地建設を進める政府は、基地予定地の大浦湾海域に極めて軟弱な地盤が発見されたことから、埋め立て工事用の大量の土砂が必要となり、昨年4月、多くの遺骨の眠る沖縄県南部(糸満市、八重瀬町)の土を新基地建設工事に使う方針を打ち出しました。以来、沖縄県民、県内の13自治体、県議会は、遺骨の含まれる沖縄県内の土を基地建設に使わないよう求めています」というのだ。
そして、「特に、沖縄での戦争で生命を失った方々にとっては、遺骨には、その国籍や立場を問わず、その方々が地上に残した無念の思い、あるいは平和への希望が宿存していることでしょう。遺族の方々にとっても、遺骨をそのように蔑ろに扱われることが、耐え難い理不尽であることを誰も否定はできません」と続く。
そして、カトリック那覇教区ウエイン・バーント司教(日本カトリック正義と平和協議会担当司教)は遺骨が眠る場所から土砂を獲って、新しい基地をつくるための埋め立てに使用することは、「戦争による犠牲者をさらに犠牲にして戦争に備える行為であり、遺骨にも及ぶ人間の尊厳と聖性に対するひどい蔑みです」と訴えている。
当方が理解できない点は「多くの遺骨の眠る沖縄県南部(糸満市、八重瀬町)の土」という表現だ。遺骨が眠っている可能性が高いとすれば、それを掘り出して埋葬できた時間は関係者に十分あったのではないか。終戦から76年の年月が経過しているのだ。それが基地建設用の海洋を埋める土砂の採掘が始まった途端、まだ見つかっていない遺骨「2822柱の尊厳」を持ち出して反対しているように感じるのだ。
まだ見つかっていない遺骨は深い地下に潜っている可能性があるから、今回の土砂採掘作業で発見できるかもしれない。作業員に遺骨の件を通達し、遺骨が見つかれれば直ぐに連絡する体制を敷いておけばいいのではないか。沖縄だけではない。ボスニア・ヘルツェゴビアの紛争地には今なお無数の遺骨が埋まっている。それが土木作業中に見つかったというニュースは度々聞く。また、カトリック教会がいつから遺骨にも及ぶ人間の尊厳と聖性を主張し出したのか。全ては米軍基地建設反対の屁理屈ではないか(誤解があれば訂正お願いする)。
日米両政府は1996年4月、普天間飛行場の全面返還で合意。そして政府と名護市は2006年4月、V字形滑走路を建設する現在の計画で合意した経緯がある。日米両政府は「辺野古移設が唯一の選択肢」との立場を堅持している。
日本や東アジアを取り巻く安全保障環境は厳しさを増している。中国の習近平国家主席は台湾統一の野望をもはや隠していない。沖縄県・尖閣諸島沖では中国海警船が領海侵入を繰り返している。米軍の抑止力維持は日本の安全にとって死活的な重要問題だ。先月開催された日米首脳会談でも「東シナ海や南シナ海での中国の現状変更の試み」に懸念を共有し、抑止力・対処力強化で一致している。沖縄は朝鮮半島や中国をにらむ戦略的要衝だ。政府は沖縄県民との会合を重ね、理解を深めていくべきだ。
日本ローマ・カトリック教会の平和主義と安保オンチは今始まったばかりではない。「平和」「平和」と叫んでも平和は実現できない。時には武力による“抑止力”を行使しなければならない。戦わなければならない時、腰を引けば負けてしまう。教会指導者は「この世の神」と呼ばれる悪魔が存在することを再認識する必要があるだろう。悪魔の前に平和を唱えることは、白旗を掲げるようなものだ。世界のカトリック教会を蝕んでいる聖職者の性犯罪が後を絶たたないのは、「この世の神」が教会内に既に侵入しているからではないか。
司教を含め宗教指導者は安保オンチであってはならない。「この世の神」がどのように世界を牛耳っているかを誰よりも理解していなければならないからだ。教会指導者は本来、安保問題のエキスパートであるべきだ。沖縄問題はそのための真価が問われるテーマだ。日本カトリック教会司教会議の今回の声明文は典型的な左翼活動家の反戦表明と同じレベルか、それ以下だ。教会指導者は「神の名」で平和を唱えていると思っているが、実は「この世の神」の手先となって使われていることを理解していないのだ。「この世の神」は教会指導者より頭が良く、一流の戦略家だ。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年5月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。