ナポレオン死後200年にその偉大さを再確認

八幡 和郎

フランス革命の成果の一部をナポレオンは後退させたようにみえるが、革命の理念を緻密に制度として確立し、現代にまで生き残らせたのは、間違いなくナポレオンの功績である。ナポレオンの功罪についてのマクロン大統領の演説と私の見解を紹介する。

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マクロン大統領の演説

ナポレオンの没後200年にわたる5月5日に、マクロン大統領は、仏学士院(アカデミー・フランセーズ)で演説しその功績を称えた。

フランスにおけるナポレオンの評価は、揺れ動いてきた。王政復古期はネガティブだったことはもちろんだが、1830年の七月革命のあとのルイ・フィリップ王は、1840年にセントヘレナ島からパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に遺骸を迎えた。

第二帝政のもとで崇拝の対象となったのはもちろんだったが、第三共和政のもとでは、微妙な扱いとなり、それは現在にまで続いている。

つまり、ナポレオンがフランス革命の完成者か破壊者かという議論である。大きな流れとしては、完成者なのだが、植民地での奴隷制を許可したとか、女性の権利を民法典で制限したとかいうことが、現代的には問題にされている。

そういう意味で、マクロン大統領が5月5日の祭典に参加するのか、どのような演説をするのかが注目されていた。

結局、来年の大統領選挙で中道右派の共和党支持者からの得票をめざすマクロン大統領は、祝典に出席し、「ナポレオンの残した戦術、法律や建築物は、今も受け継がれている。ナポレオンは今も私たちの一部だ」と予想より肯定的な評価を与えた。

民法典の編纂、中央銀行や士官学校設立などを列挙。一方、ランス革命で廃止された奴隷制を1802年に復活させたことに触れ、人権思想への「裏切り」だったと評価した。

なみに、これは、フランス革命により、植民地での奴隷制は1794年に廃止されたが、1802年、英国の支配下にあり奴隷制が維持されていたマルティニク島がフランスに返還された際に、奴隷制を肯定したことで、全面的な肯定ではない。

 とはいえ、「現在の考えに添わないからといって、過去を抹殺しようとする動きには屈しない」として、アメリカでみられる歴史的人物を片端から否定するような動きは否定し、「コルシカ島生まれの少年が欧州の覇者となり、たった一人で歴史を変えられることを示した」ことを評価した。

また、この演説のあとアンバリッドのナポレオンの墓に献花した。

ナポレオンはフランス革命を完成させ明治体制のモデルにもなった

ナポレオンについての私の評価は、「英仏独三国志」で書いたので、その抜粋を紹介する。「英仏独三国志」「日中韓三国興亡史」と二部作をなし、三つの国の歴史を同時並行的に描き関係を明らかにしようという新しい試みだ。

フランス革命をナポレオンが完成させたのか、それとも終止符を打ったのか論争は二世紀に渡って続き、いまも尽きない。

パリを訪れれば、エトワールの凱旋門や、アンバリッドの黄金のドームといったナポレオンを記念するモニュメントが誇らしげにそびえ立っている。通りの名前もイエナ、オーステルリッツ、トロカデロなどナポレオンの古戦場だらけだ。

ほかのヨーロッパ人はナポレオンをどうみてるかというと、イタリアではだいたい好意的に見られているが、イギリス人がナポレオン嫌いなのは当然だが、ドイツ人とかスペイン人は微妙だ。

彼は独裁的な政体を打ち立て、ローマ教皇から帝冠を授かり、業績といわれているもののほとんどは、旧体制(アンシャン・レジーム)時代に萌芽があったり、革命期にロベスピエールなどが始めていたのが多い

しかし、フランス革命は、ナポレオンによって制度として定着し、ヨーロッパ全体に広まったのも疑いない。

ナポレオンは、晩年になって、「私の栄光は40の戦いに勝ったことではない。なにものも消すことができず、永遠に生きるのは、わたしの法典である」といった。法典を整備し、徴兵制度を定着させ、官僚制度や賞勲制度を創り、地方制度を定着させ、公的学校制度を打ち立て、「メートル法」など度量衡を統一し、ナポレオン金貨の鋳造などで金融制度を確立した。これらは現代の日本社会にも大きな恩恵を与え続けている。

日本の政治行政制度はドイツの影響を受けたものが多いというが、日本が導入したプロイセン王国や統一ドイツ帝国の制度は、ナポレオン帝政のフランスを模倣したものが多いから、それらのルーツはナポレオンにある。

学校制度では、リセ(日本の旧制中学校)を整備し、社会的指導者を広い階層から輩出することを可能にしたことが最大の功績だ。それに加え、師範学校(エコール・ノルマル)や士官学校(エコール・ミリテール)など職業学校の整備は「農民の子でも学校の先生や士官になれる。彼らの子は何にでもなれる」というフランス流の機会均等の仕組みを造り上げた。徴兵制も貴族の特権の根拠を覆した。

信教の自由を認めつつ、カトリックを国民大多数の宗教として位置づけたことで、ローマ教会と和解し「政教和約」(コンコルダート)を結んだので、王政復古を遠のかせ、民主主義とキリスト教の両立への道筋をつけたし、皇帝即位は中世的ヨーロッパに終止符を打った。

ナポレオンは、飛び地などで割れたビスケット状態になっているドイツ諸邦の領地を整理した。ライン左岸はフランスに併合し、それ以外もいくつかの大きな領邦にまとめ、群小国はそれに参加させた。これは、フランスが影響力を及ぼしやすいように計らったものだがが、結果的にはのちにドイツの統一の基礎になっていった。

アーヘンやマインツでシャルルマーニュの後継者は自分だとアピールし、1804年にノートルダム寺院で皇帝となった。ローマ教皇も参加したが、ナポレオンは冠を教皇から受け取って自分で戴冠した。そして、1805年のアウステルリッツでの三帝会戦で勝利した。

ドイツではバイエルンやヴュルテンブルクが王国となり、娘婿にナポレオンの弟やジョゼフィーヌと先夫の子を迎えた。西ドイツ地域の領邦は神聖ローマ帝国を離れてライン連邦に加わった。

これを見て、皇帝フランツ二世は、1806年に「神聖ローマ帝国の皇帝としての義務から離脱する」ことを宣言し、かわりにオーストリア皇帝を名乗った。ナポレオンに強制されたと言うより、選挙で敗れて皇帝の称号を失うことを警戒して、オーストリア皇帝なら世襲できると計算したらしい。

ナポレオンは、ドイツ統一の影の功労者でもある。プロイセンをイエナの戦いで撃破したのち、ナポレオンはベルリンに入城してイギリスに対する「大陸封鎖」を宣言したのが1806年である。翌年にはティルジットでロシアのアレクサンドル一世とナポレオンが会見して、ポーランド大公国が誕生した。

ドイツの諸邦は、大陸軍(グランダルメ)に組み込まれ各国で戦わされた。国内体制もフランス式の近代国家に改造を余儀なくされたが、これは、日本の戦後改革と同じで強制されたものだったが、自主的には不可能な根本的な近代化を助けてメリットも大きかった。ナポレオンはドイツにとってのマッカーサーとなった。

プロイセンは、農奴を解放し、都市の自治を認め、優れた将軍やクラウセビッツのような優れた理論家のお陰で近代的なドイツ軍の基礎ができた。日本は最初はオリジナルとなったフランス陸軍をまねて、のちに、ドイツ軍をモデルとすることになるから、どちらにしても、ルーツはナポレオン軍だ。