現代中国で評価される則天武后を意識した光明皇后

中国でも日本でも伝統的な歴史観では、女帝への評価は低い。しかし、7世紀から8世紀にかけては、日本では、推古、皇極(重祚して斉明)、持統、元明、元正、孝謙(重祚して称德)、新羅では善徳女王(在位632~647)、そして、中国でも、則天武后(中国では武則天という)がいたが、決して男子の皇帝・国王・天皇に劣らない。

竜門大仏 著者撮影

高宗の皇后だった武則天が、子の睿宗(兄の中宗を廃して皇帝となっていた)を690年に廃して自ら聖神皇帝となり、唐を廃して周とした。その後、705年には退位して706年に崩御した。

しかし、655年に前皇后を逐って皇后となったときから、水銀中毒だったといわれる夫の中宗にかわって実権を掌握しており、半世紀に渡って中国を統治した。

儒学者からは誹謗されたが、文化大革命のころ江青夫人の肝いりで再評価がされ、改革開放の時代になってからも、非常に高く評価された名君である。

もともと、武則天は、いまも政治家や経営者のバイブルとされる『貞観提要』でも知られ、中国史上屈指の名君と言われる太宗の後宮に637年に入ったが、聡明すぎることを警戒され、それほど重んじられなかった。

だが、太宗の子の高宗が即位したのち、いったん道士として出家したが、皇后の推挙で後宮に戻った。このころ、皇后と愛妾の蕭淑妃が対立していたが、やがてこの両者を排除して皇后となった。

武則天は、科挙によって採用された官僚を積極的に使い、偉大な皇帝だった太宗を失った不安定な時期を、見事に乗り越え、その治世においては農民の反乱なども起きなかった。

外交では、日本・百済・高句麗に圧迫されて窮地に陥っていた新羅を使い、百済を滅ぼして併合し、その復興を試みた日本を白村江の戦いで破り、ついで、高句麗も滅ぼして併合し、新羅王からも国王の肩書きを剥奪して一時は諸侯とした。

日本とは669年から国交が途絶えていたが、703年に第八回遣唐使を迎えた(粟田真人。執節使)。制定したばかりの大宝律令を携え、日本という国号と天皇という称号を名乗って乗り込み受け入れられた。

この遣唐使は、もっとも重要なものであり、律令制度の運用を実地に学び、長安の都市構造を視察し、それを模倣して710年に平城京が営まれた。

唐では、仏教より道教を優先させていたが、則天武后は、仏教を信仰し、自らを弥勒菩薩の生まれ代わりとした。この時代に造営されたのが、洛陽郊外竜門の石窟寺院の主要美だが、もっとも有名な奉先寺大仏は、則天武后をモデルとしたと、少なくとも中国人は信じている。

晩年、病気がちとなるや、甥に帝位を譲ることも考えたと云うが、結局は、元の皇帝の中宗を復位させ、自らの諡号としては皇后とするように遺勅したという。

その死後は中宗の皇后だった韋后が則天武后を真似ようとし中宗を暗殺したと言われるが、則天武后の娘で姿も性格も似ていたとされる太平公主と睿宗の子の李隆基が組んでクーデターを起こした。この李隆基がのちの玄宗であって、楊貴妃の出現までは優れた政治を行った。

この則天武后の政治に非常に影響されたとみられるのが、光明皇后であり、彼女が引き立てた甥の恵美押勝である。

光明皇后の剛毅な性格は、正倉院に残された墨跡にもよく出ているが、大仏の建立を主導し、聖武が退位したのちは、娘の孝謙女帝を立てて、事実上の院政を敷いた。とくに晩年は、甥の藤原仲麻呂(恵美押勝)を政権につけたが、そのもとで行われた、称号や尊号、都市の名前、人名など伝統的に使用されてきた呼称を仰々しい新しい名前に変えたのは、まさに則天武后のやり方を真似たものだ。

天皇という名も、もともと、則天武后のイニシアティブで、660年に皇帝の名を天皇と変更したが、おそらく日本の天皇号もこれにならったのであろう。

また、恵美押勝が新羅討伐を企てたのも、則天武后の積極外交に影響された可能性が高い。