医者の世界では同業者のミスを患者に云わずが常識

医師批判をすると、必ず、自分の肉親が世話になった医者さんがいかに献身的だったかとかいう話をして、お医者さんは聖職で間違ったことはしないと信じている人から、医者のことを悪く云うなと文句言われる。

taa22/iStock

しかし、残念ながら、患者や家族から感謝されてるということと、本当にいいお医者さんだったかはほとんど相関性がない。

なぜなら、医者は自分のミスを患者に話すことはまれである。医師から自分や家族の診察や処置について、失敗しましたと聞かされた人はあまりいないのではないか。逆に正直な医者がいて、自分のミスを説明したら、その医者は感謝されないだろう。つまり、ミスを隠す医者ほど感謝されるというパラドックスが存在する。

また、医者には、他の医者のミスを患者に教えないという仲間内の職業「モラル」が存在するから、医者のミスを患者が知ることはほとんどない。

私の父親は医者だったし親戚に医者が多かったので、医者同士の会話を聞きながら育ってきた。そのとき、いちばん違和感をもったのは、ほかの医者の誤診や医療過誤といったミスに気付いても、患者には云わないというのが医師同士のあいだで当たり前の「モラル」になっていることだった。

何かおかしいと思ったので、父親に質問したこともあるし、今に至るまで、ほかのお医者さんにもよく聞くのだが、だいたい、回答は同じだった。

「患者が医者を信用しなくなったら、日常生活でのアドバイスも聞かなくなるし、投薬や手術を奨めてもいうことを聞かなくなる。たしかに、患者に本当のことをいわないのは、心苦しいが、医療への信用を維持することが結局は、患者のためにもなる」

日本では、同業者の悪口をいわないというモラルは、医者の世界に限らず、多かれ少なかれ存在する。工業製品などでも海外に比べて広告で他企業の製品を批判することは、タブーのようなところもある。

しかし、医者の世界は極端である。しかも、患者自身にとってミスに気付くことは難しい。知り合いの歯医者さんとこの話を議論したら、「歯医者は動かぬ証拠が残るが、お医者さんは普通、証拠は残らないからうらやましい」といった。

もちろん、最近はセカンド・オピニオンなどもシステムとして整備されてきた。しかし、それは、今後の対処方針についてであって、過去の医療過誤などの指摘ではない。

私はアメリカのように、医療過誤に対して、懲罰的な賠償を課すような方式もいかがかと思う。しかし、逆に、日本のように、本人にも家族にも知らせないのがモラルというのは、21世紀の社会で、とうてい容認できるものではない。

医師が自分たちのミスを隠したり、他の医師のミスに気がついてもそれを教えなかったりした場合には、損害賠償や行政処分の対象とすべきだと思う。医者以外の社会では、そういう情報公開は当たり前のことだ。

山崎豊子さんの「白い巨塔」に、こんな話があった(若干、うろ覚えである)。

身寄りのない老夫婦の夫が入院していて、気の毒なので、財前教授は回復の見込みはないが、輸血で延命していた。

ところが、保険機関の審査のときに、若い医者が回復の見込みがないが、あまりにも気の毒なので、少しでも生きさせて上げたいと思って輸血していることを話してしまう。当然、支払機関は延命のみを目的とした輸血に対しては払えないと通告してきた。

窮地にたった若い医師は理不尽だと騒ぐがどうしようもない。そして、財前教授に判断を求めたところ、赤い色の液体を点滴しておくように指示をする。そして、何週間かして、その患者は死ぬ。若い医師は本当のことを患者にいわなくて良いのか悩むが、未亡人が財前教授が夫に尽くしてくれたことに感謝し、神様のように崇めるのをみてまた悩むといった話だった。

人間、失敗をしないはずもないし、それは受け入れるしかないし、過度の責任追及は考えものだ。しかし、医者がいかにも良心的そうな顔をして、ベストを尽くしたようなことをいっても、それを信用すべきでもない。

私に「私の知っている医者はみんな立派だった。両親の最後を献身的にみてくれた医者をみていたから、例外的な悪い医者がいるからといって医師批判をするのはおかしい」などと騒ぐ人の話を詳しく聞くと、なんの根拠もなく感謝しているのがわかるし、医者でない私でも明らかにその医者の措置が不適切だったことが推察できることもある。

もちろん、日本の他の職業の人と同様に医師の水準は低くないし、献身的に命を救うために戦う人が大多数だ。ただ、それは客観的な精査と評価の結果そういわれるべきで、なんとなく、親切そうだったかどうかで判断されるべきでないということを云いたいのである。

(今回は、私のメルマガで会員向けに書いたものを、具体例は省いて紹介したものです)