世阿弥著『花鏡(かきょう)』に、「初心(しょしん)忘るべからず」とあります。言い古された言葉で巷間ではその通りだと受け止められますが、果たして本当に初心は忘れてはいけないものでしょうか。と申しますのも、自分自身が大して分かっていないことでも、初心を貫くことが真に良いのかどうかと思う部分があるからです。
2年半程前、『心眼を開く』と題した本を上梓しました。此の心眼とは辞書的に言えば、物事の真の姿をはっきり見抜く心の働きということです。私流に心眼を解釈すると、此の心眼には次の二つの大きな働き、①自己すなわち自分自身の本当の姿を見ること及び②自己以外の他を見ること、があると考えます。
私は初心を持ったタイミングが中国古典で言う「自得(じとく)」に通ずる①が十分に出来ているかが非常に大事になると思っています。つまり根本において本当の自分、絶対的な自己を掴んでいるか否かということです。
言うまでもなく、②の心眼は①の自得がある程度出来るようでなければ、他人の心あるいは様々な物事の真の姿など、はっきりと見られるわけがないでしょう。自得こそが全ての出発点であると明治の知の巨人である安岡正篤先生も説かれている通りだと思います。
心の奥深くに潜む自分自身を知るのは極めて難しく、人生で色々な経験を重ねて行く中で一つひとつ分かってくるものです。ですから、ある程度の年齢にならないと、また自得も出来ないわけです。あの孔子も50歳になって漸く天命を知ったと述懐しています。
勿論、若くして自得出来て「この道に入るんだ」として絶対に揺るぎ無きものがある場合、それはそれで良いと思います。但し、余りに早くから「初心忘るべからず」では間違った道で力を入れ続け、後に悲劇に見舞われることにもなりかねません。自分が分からねば如何に生くべきかも分かるはずがありません。私自身この自得について若い頃から随分考えてきましたが、自分が天職と思える仕事は何かは中々分からないものです。
人間、自得から出発した上で、「自分は天から、こういう能力が与えられた。こういうのを開発すれば、もっと世のため人のためになる。だから、之を志として生きて行こう」、といった「初志貫徹」であれば分かります。しかし世に軽軽に使われる「初心忘るべからず」の多くは、必ずしもそうではないように思うのです。
安岡先生も言われるように、君子というのは「『中庸』にある如く、貧賤のときは貧賤に素し、富貴には富貴に素し、夷狄(いてき)には夷狄の境地に素し、患難に対処してもその境地にあって自得する」ものです。我々は君子を目指し、いつ如何なる境地にあっても、その場に遊離することなく物事に処して行くことが大切なのです。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年5月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。