LGBT法案の修正は本当に大団円なのか

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LGBT法案についての与野党協議を行っていた超党派の「LGBTに関する課題を考える議員連盟」は、野党からの強い要望で基本理念に「差別は許されない」という文言を入れる修正を行ったと発表した。理不尽な差別を認めてはならないのは当然のことだが、筆者が心配するのは、しばしば「何をもって差別とするのか」という議論さえも差別だと断定するリベラルメディアの姿勢にお墨付きを与えてしまうのではないかという点だ。

そのことを痛切に感じたのは、2018年に起こった『新潮45』廃刊騒動においてだった。これを報じる既存マスコミを筆者は冷めた目で見ていた。なぜなら「杉田水脈論文は差別といえば差別かもしれないけれど、杉田氏を糾弾しているあなたたちも同じような差別をしていることに気づいていますか?」と感じたからだ。

当時、少なくない知識人がそれを指摘したが、興奮状態にあった新聞やテレビが核心を伝えることはなかった。いやむしろ、あえて報道しなかったといったほうが正確かもしれない。問題の本質を万人が知るところとなれば、社会の底は抜けていることがバレてしまうからだ。

たとえば「生産性」発言について、メディアは相模原障害者施設殺傷事件を引き合いに出し、「役に立つ」「役に立たない」という基準で命の線引きや人権の線引きをしてはならないとの主張を繰り広げた。しかしながら我々は、新型出生前診断により胎児がダウン症などの重い疾患を抱えているとわかれば96%が人工妊娠中絶を選択する社会を生きている。90年代に哲学者の井上達夫氏と社会学者の加藤秀一氏との間で展開された命の線引き論争(プロライフ・プロチョイス論争)は、いまだ決着がついているとは言えない(江原由美子編『生殖技術とジェンダー』参照)。

また、2016年のアメリカ大統領選挙テレビ討論会でヒラリー・クリントン氏は「中絶の権利はどれくらいの範囲で有効だとお考えですか?あなたは胎児には憲法上の権利はないとおっしゃったことがあります」と聞かれ、9か月目の最終日であっても堕胎を支持すると受け取れる答えをした。そのことは最後まで尾を引き、彼女が敗北する一因となった(荻野美穂『中絶論争とアメリカ』参照)。

相模原障害者施設殺傷事件の植松聖死刑囚は『実話ナックルズ』で漫画の連載をしている。題名は「TRIAGE(トリアージ)」。トリアージとは、事故現場などで助かる命を優先して治療すること。「お前らだって生産性で命の選別をしているではないか」と、彼は獄中から私たちに揺さぶりをかけている(『開けられたパンドラの箱』参照)。

命の線引き、人権の線引きは、常に恣意的であり政治的なのだ。

歴史学者の與那覇潤氏は、こうした問題点をいち早く察知したひとりだ。與那覇氏は杉田氏の無理解を批判しながらも、この騒動は決してリベラル派の勝ち星ではなく、却って「堕落」と「自己矛盾」が明らかになったと以下のように述べた(『Voice』2018.10参照)。

「子供を作らない人は、子供を作る人より『生産性』が低いのだから、税金による支援は後回しだ」というのが、今回問題にされた杉田議員のロジックでした。しかしわずか二年前の2016年に、リベラルな人びとは何をしていたのか。「保育園落ちた日本死ね!」と記された匿名のブログを担いで、子育て支援には最優先で税金を投入せよ、それをやらない安倍政権は悪だと、大声で叫び回っていたのではないですか。異性愛者同士のカップルでも、生物学的な要因で子宝に恵まれない人たちはいます。あるいは経済的な理由などで、そもそも所帯を持てない人たちもいます。彼らの視点に立つならば、「子供を作らないあなたは、世代の再生産に貢献しないのだから、国による支援は後回しですよ」といわれている点に関して、保育園デモと杉田議員の論理は大差ありません。「日本死ね!」で倒閣できると騒ぎ回ったとき、そうした人々のことは視野に入っていたか。リベラルだと思っている自分の心にも、じつは内なる「杉田議員」がいたのではないか。そうして自己を内省する議論を、ほとんど見掛けない。リベラル派の知的な不誠実も極まった感があります。

つまり與那覇氏は、保守派もリベラル派も生産性を前提にしている以上、どちらも同じ穴の狢だと指摘しているわけだ。ゲイである筆者も、民主党の政治スローガン「チルドレン・ファースト」の言葉を聞いたとき、何とも言えない寂しさを覚えたことがある。

『思想』2019年5月号には有名なクィア学者、リー・エーデルマン氏の論文「未来は子ども騙し―クィア理論、共同一化、そして死の欲動―」が掲載された。

彼も與那覇氏と同じように、「(再)生産性の信仰」が社会構造の中に深く埋め込まれていることを問題視する。純粋無垢な存在として子どもを特権化し、社会を保全しようとするリベラルもまた「保守」にすぎない。最近ではゲイやレズビアンにおいてさえも生殖技術によって子どもを持つ姿が喧伝され、まっとうな家族になることが期待される。再生産サークルの外側に立つクィアにはどこにも居場所がないではないか、というのだ。

これは大変重い問いかけだ。次のようなアポリアを孕むからである。

文筆家の木澤佐登志氏はクィア学者のレオ・ベルサーニ氏についての議論の中で、《日本でもポジ種専門(?)のベアバッキングを実践している会員制サウナが大阪の某地区に存在しています。ただ、先日そのサウナのサイト兼掲示板を覗いてみたところ、ここ最近はコロナの影響で営業を自粛しているようでした》と報告している。

ベルサーニ氏のいうベアバッキングは、誰がチキンかを確かめ合うためにドアノブを舐める「コロナウイルスチャレンジ」のごときものではない。HIVウイルスをみんなで共有することの一体感に至福を感じるゲイの「生堀り・種付け」のことだ。もちろん愚行権を認めるというのが自由主義の基本だが、死の欲動を抱えるある種のクィアたちを中心に据えた政治はイメージしづらい。政治家としては、共同体の持続可能性を手放すわけにはいかないからだ。やはりそこには線を引くしかない。

ただし、同じ線を引くにしても自覚があるのとないのとでは雲泥の差がある。社会の再生産を望まないクィアとは丁寧なコミュニケーションを重ねていきながら、彼らの悲しみを抱きしめ、痛みとともに境界を設定することが肝要だ。別枠での対応が現実的な解だと感じる(江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』参照)。

このような感受性は、いま話題になっている「反出生主義」「反出産主義」にもつながっている。

「人生のほとんどは苦しみ。トータルで考えるとマイナスだ。自分は生まれてこなければよかった。いや、そもそも誰が生んでくれと頼んだのだ?自分は同意していない。同意なき出産は暴力だ」と、インドでは親が提訴された。

そして誤診により障害者として生まれた人が「なぜ自分を産ませた?」と医師を裁判にかけるロングフル・ライフ(誤りである生命)訴訟では、フランスやアメリカの一部の州、オランダやイスラエルで勝訴するケースも出てきている。

「生産性」問題が保守やリベラルといった党派性を超えたものであることがよくわかるのではないだろうか(森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』参照)。

本来ならメディアはここまでの一連の問題群を国民に提示しなければならなかったはずだが、限定的な話に終始してしまったことが残念でならない。そして国会からも、最後まで差別についての本格的な議論は聞こえてこなかった。

わが国におけるLGBT法の成立が、差別とは何か?人権とは何か?正義とは何か?公正とは何か?寛容とは何か?保守とは何か?リベラルとは何か?を改めて考える機会になることを願わずにはいられない。