大宅壮一の「青春日記 上下巻」(中公文庫)を読んだ。彼が旧制茨木中学の学生だった頃に欠かさずつけた日記だ。期間は大正4年7月27日から大正7年11月13日までの3年4ヵ月なので、若干の抜けを見込んでもおよそ千篇以上ある。そこには、正義感に富み、皇室を敬愛し、学習意欲に溢れ、家業をよく手伝う、大宅の模範生らしい若き日の日常が綴られている。
それが教科の一つだったことが文面から窺われるが、だからと言って自らを偽って書いていたとは思われない。が、ここで触れたいのはその詳細ではなくて彼が投書マニアだったこと。少年雑誌への俳句や和歌、懸賞作文などが主だが、中には世事に関する意見投稿もある。主催する時事新報社から少年大賞の一人にも選ばれ、大ジャーナリストたる後の姿を予感させもする。
今日のようなネット社会になる以前は、一介の市井の者が社会に向けて自分の意見を述べようと思えば、大宅少年のように、投書を新聞や雑誌にすることくらいしか手段がなかった。それとても、限りある紙面に載るには、今と同様に新聞社や雑誌社の編集方針という網が掛かるので、量においてもまた質においても、不特定多数の読者の目に多様な意見がそのまま触れることなどあり得なかった。
だが、誰でもが自分の考えや意見を不特定多数の人々に発信できる社会になれば、それに付随して生じる不具合や弊害を避けるのは簡単でない。すなわち、自分と異なる意見の「私人」に対する度を越した誹謗中傷などの、ヘイトや炎上とも言われる事態が起こるからだ。一昔前までなら、心に思うか日記に書くか、または相手の属性が判る場合の手紙や電話までが精々だったろうに。
この社会現象は実に深刻で、若き女子プロレスラーの自殺という悲しい事件も起きたし、公人とはいえビックテックによるトランプのアカウント凍結では、超大国のトップ選びにまで影響を及ぼした。ではどうしたら良いかと言っても、昔から「人の口には戸が立てられない」と言われ、一度広がった噂は止めようがない。結局、各個人が「根拠のない噂」を発信しないように心掛けるしか手はないのか。
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筆者も本欄で自己主張をしている身なので、「根拠のない噂」の発信源にならぬよう自省する日々だ。つまりは、一個の事案に関するできるだけ広範な記事や論考を読み、そこに記された情報源を芋づる式に辿って一次資料や原典に当たり、それを自分の論考に引くかまたはリンクを張る作業を心掛ける。
だが始終、思い違いや見落としをやらかす。先般の「東京五輪中止論議」の論考でも、まだ決まっていない「無観客での実施」を、決まったことのように書いてしまった。「無観客で実施すれば」というように一つの前提条件として書くべきだったのに。
もう一つ気を付けていることは、マズローが整理した「人間の欲求」に関係する。もとより心理学など門外漢なので、解説書の類で得た知識に過ぎないが、それは投稿などを続けていると、マズローのいう「承認欲求」を満たしたいと思うようになるということ。これはツイッターなどで発信する場合にも、またそれを批判する書き込みをすることにも共通するかも知れぬ。
「承認欲求」とは、自分の所属する集団で高評価を得たいとか、自分の能力を認められたいと欲することを言う。筆者はそれ自体を悪いこととは思わないし、「鶏口牛後」という語があるように、自らが属する集団がたとえ小さくとも、そこでトップに立とうと努力する気持ちは尊い。が、「我執」を難じながら自らそれに囚われ過ぎるのは拙い。
ネット空間で主張を発信した場合に、状況が主張した通りになってもらいたい、との承認欲求を過度に持つと、その発信に拘泥してしまう愚に陥ることがある。極端な例を想像すれば、九条があるから戦争が起きないとの護憲派の論が間違っていることを明らかにすべく、日本が戦争に巻き込まれることを九条改正論者が願ってしまうような事態だ。
あるいは、新型コロナウイルスでのPCR検査論争で言うなら、PCR検査推進論者が自らの主張の正しさを証明したいとの一念から、国中でコロナ患者が増加することを望むようなことも、口には出さないまでも心で希うことはあるかも知れない。いずれも極めて倒錯した欲求だが、白状すれば筆者も似たような気持になることがままある。
これの最も確実な解消法は発信しないことに尽きるが、それでは身も蓋もない。詰まるところは、世間の評価を気にしないことではなかろうか。つまりは「見ない」と言うことであり、言い換えれば、ないことにして「自己満足に浸る」と言うことだ。無責任の誹りを免れないが、見たり聞いたりしなければ、つまり知らなければ気にならない。
マズローは「自己実現している人には、少数の親しい人がいる」とも述べている。すなわち、広く社会に評価されずとも、少数の理解者がいれば良いと考えることだ。なるほど「自己実現欲求」は、マズローの5つの欲求、すなわち、1. 生理的欲求 2. 安全の欲求 3. 社会的欲求 4. 承認欲求 5. 自己実現の欲求、の最も高次な欲求に位置付けられている。
多くの人々と上手くやっていこうとすれば、自分を殺すことも必要になる。が、現役で働くにはそれも必要だろうけれど、その種の柵(しがらみ)から解放されているなら、気が置けない友だけを持てば済む。ただし、自分と異なる他者の思想信条や考えに対しては、それを受け入れないまでも異論にとどめ、誹謗中傷はしないこと。誹謗中傷が自己実現の欲求なのでは、余りに悲しく惨めだ。