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■囲剿戦
蔣は30年10月に発表した「全国の同胞に告げる文」で「共匪粛清」を重要政務の一つ(他は財政整理、経済発展、吏治粛清、地方自治)と位置付け、12月に第一次囲剿戦を開始した。毛は「中国革命戦争的戦略問題」(36年12月)で五次の囲剿戦に触れている。「マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記」(東方書店)からその記述を見てみる。
毛は戦いの秘訣を「勝利できるなら戦い、できなければ撤退する」、「機会はいつでもある。軽率に応戦してはいけない」とし、「人に対しては、指十本を傷付けるのは、指一本を切断するに及ばない。敵に対しては、十個師団を攻撃するのは、一個師団を殲滅するに及ばない」と述べ、それは第一次囲剿戦での張輝瓚軍殲滅のことだ。
第二次囲剿戦(31年5月16日〜)では「情報が漏れているかも知れない危険を冒して即刻攻撃すべしとの提案を退け、敵に迫って待つこと25日、漸く目的を達成した」とし、「第一次、第二次、第四次では(我々は)皆ゆったり落ち着いて敵に対処した。ただ第三次だけは、敵が第二次で惨敗を喫した後なので次の進攻が早く、紅軍は慌ただしく回り道をして集合したが、かなり疲労していた」と書く。
一方の蒋は日記に「康都攻略の後、康昌を攻略してから寧都、興国を攻撃しなければ韓匪(江西の匪賊=共産党)は平定されたとは言えない」と7月12日に書いた。が、結果は毛が「我が軍は20里の間隙の山中をこっそり越え、興国県内に集中した。敵が気付いた時、我が軍は既に半月休憩していた。敵は飢えと疲労で戦意を喪失し、戦闘力もなく、ついに退却をした」とした通りだ。
真相は国民革命軍が紅軍を追討し、9月9日に瑞金を占領したのだが、逆に毛は「蔡鼎文の師団を殲滅し、敵は逃げ出した」と書いている。が、実のところは9月18日に柳条湖事件が起き、満州事変が勃発していた。12月には蒋の主席辞任もあり、囲剿戦を中断したのだ。
日本が国共内戦に乗じた格好だが、31年11月の中華ソビエト共和国成立もまた、蒋が対日戦に兵力を割いた間隙に乗じていた。32年1月には第一次上海事変が起き、33年1月には関東軍が山海関を占領、長城を超えて熱河に進出し、国民政府の中央軍20万が対抗した。対日戦は33年5月末の塘沽協定まで続く。
■長征
33年9月、蒋は50万の兵で第五次囲剿戦を開始、トーチカを築いて敵の機動力を削ぎ、ソビエト区を封鎖して医薬品と塩の供給途絶を試みた。毛は「敵はトーチカ主義という新戦略を取った。我が軍も攻撃したが、敵の主力とトーチカの間を転々として全く受動的な立場に陥った」、敵軍は「大規模で中国のどの時代の軍隊、ひいては世界のどの国の軍をも超えている」と悲観的だ。
瑞金を脅かされた中華ソビエト共和国の紅軍8万は34年10月、瑞金近郊の于都に集結し長征の途に就く(後に「于都惜別情」(民衆との惜別)と語られる)。3列縦隊の長い隊列は中央に毛ら5千の司令部を置き、彭徳懐軍と林彪軍が周囲を固めた。行く手には4重の封鎖線が待ち構えていたが、最初の封鎖線を守備する、瑞金との交易で利を得ていた広東軍とは話がついていて、難なく通過した。
蒋は10月3日、配下に「広東軍が包囲網の一端を開けるだろう」といい、忠実な軍隊を当てたらどうかとの進言にも、そうした心配は無用と答えている。翌月初め、次の封鎖線に達した隊列は数十キロに延び、攻撃には絶好だったがまたも広東軍は手出しせず、何鍵将軍の湖南省部隊も傍観した。3番目の封鎖線も同様だったが、蒋は何鍵を譴責するどころか、11月12日付で追剿総司令に任命した。
次の「湘江」でも何鍵総司令が封鎖線を敷いていた。が、その話に入る前に中国における長征の物語化について、鐙屋一(あぶみや・はじめ)目白大学教授の論考「長征物語の形成と背景」から少し見てみたい。
教授は、長征は「英雄たちが活躍するいくつかの定型的な『物語』が接続、融合されて一つ『歴史』として組み立てられている。即ち、過去の出来事は『描写』されるのではなく、想起的に『構成』されている」とし、その類型は「于都惜別情」、「血染湘江水」から毛の指導権が形成された「遵義会議」を経て、陝西省北部延安で紅一・紅二・紅四の3方面軍が合流する「三大主力会師」まで13に及ぶと述べる。
物語化は37年2月の「二万五千里」を濫觴とし、37年10月には早くもエドガー・スノーが「中国の赤い星」と題して英国で出版(米国は38年1月)した。その後も今日に至るまで削除と加筆による物語化が行われている。
■湘江の戦い
37年版「二万五千里」の「血染湘江水(湘江の水が血で染まる)」を要約すれば、紅軍は大きく5つ根拠地から出発し、江西省からの紅一方面軍は、湖南省からの紅二方面軍との合流を目指して湖南省の湘江を越えようとした。しかし国民革命軍の陸空からの猛攻撃を受け、出発時の8万6千人の兵力が3万人まで減少するという消耗の甚だしいこの戦役を描いている、となる。
これを「マオ」はどう書いているか。なお、ショートの「毛沢東」と「マクロヒストリー・・蒋介石日記」に「湘江」の詳しい描写はない。
湘江に橋はなく川を歩く隊列は川沿い30㎞に及んだ。対空砲のない紅軍は飛行機からも格好の標的だったが爆撃も射撃もせず、何鍵の部隊も渡河を傍観した。12月1日、主力の4万が渡河を終えると、蒋は湘江を封鎖し東岸の4万への爆撃を命じた。戦死者は3千強で、大半は行軍中に病気や疲労で弱った者であり、その他は脱走や散亡した。
蒋は意図的に紅軍の主力部隊を通過させ、彼らを西に追いやる動きをした。西の貴州・四川・雲南は、百万㎞2を超える広大な土地に1億以上が住み、独自の軍を持ち、南京政府に納税もせず、事実上独立した存在だった。最も広く5千万が暮らす四川省は、四方を峻険な山に囲まれた難所で、蒋はいずれ日本と戦う時の大後背地と見ていた。
蒋が紅軍をこの三省に誘ったのは、蒋の軍がここの軍閥と正面から戦うことを避けるためだった。紅軍をここに追い込めば、三省の軍閥はその居座りを恐れ、いずれ蒋の軍に紅軍への共闘を請われると踏んだのだ。そうなれば蒋はこの三省に軍を進めて堂々と支配できるという訳だ。
蒋は11月27日の「中央と地方の権責を画分する宣言」でこの話をしている。が、国民党は今もこれを公にしておらず、一方の共産党も物語化して事実を秘している。振り返ってみれば「湘江の戦い」の真相は、どちらにとっても都合の良い話ではないからに相違ない。蒋は紅軍の逃亡を許したのだし、毛にとっても長征が蒋に仕組まれたものだったからだ。
が、筆者はここに「策士策に溺れる」蒋を見る。なぜなら30㎞に広がって湘江を渡河する8万を空と対岸から殲滅するのは、「マオ」が書く通り容易かろう。西の三省の軍閥との融和なら、日本軍と戦う時でも良いではないか。三省の軍閥にとっても紅軍よりも日本軍の方が一層脅威ではあるまいか。
後講釈はさておき、紅軍は「湘江」で8万のうち5万6千を失ったが、死者は3千で他は逃げていた。習が「マオ」を読んだかどうか知らぬ。が、中国共産党員9千万も他の10数億もきっと読んでいないだろうから、「物語」だけを読む者には記念公園訪問が有効ということか。なお「マオ」には、長征の後も毛が策謀で権力を集中してゆく様子がうんざりするほど記されている。