「コロナはさざ波」に反発するリベラル派の欠陥

内閣官房参与で経済学者の高橋洋一氏が「コロナはさざ波」と発言したことに対し批判が集まっている。このツイートの本題は人口比で見た場合日本のコロナ感染者数が諸外国と比べ少ないということである。むろん、言い方が悪かったという批判はできるであろうし、公人が砕けた言葉でツイートしていいのかという疑問はある。

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ただ、それより気になったのはツイートの主題が何であるかということを理解しないまま言葉尻をとらえ、「私たちはコロナでこんなに苦しんでいる」「コロナで近親者が亡くなって悲しさに目を向けて」という感情的な反発が多く流通したことである。このツイートの論拠は人口比でのコロナ感染者数というは数字で表されるデータである。

もしこのツイートに反論を試みたい場合は別の数字で表されるデータ、例えば人口比で見た場合の病床数やコロナに対応した医療機関の国際比較などを以てする必要がある。そして「コロナはさざ波」に反発する人々の大部分は、人口比での感染者数という数字を無視し、数字で表せない個人的な感覚を以て反発している。一部数字を以て論駁を試みている人もいるが、例えば東日本大震災の犠牲者数とコロナウイルスによる犠牲者数との比較といった、無関係な数字同士を組み合わせた議論に終始している。これらはいずれも詭弁の域を出ていない。

反発の主体となっているのは菅政権に対し批判的なリベラル派である。反発の理由として考えられるものとしてはまず、リベラル特有のゼロリスク信仰があげられるだろう。むろん、ゼロリスクということは現実にはあり得ないが、リベラル派はリスクが存在すること自体が悪であるとみなし、リスクをゼロにするよう主張する。これが一番顕著に表れているのは福島原発事故を踏まえた原子力・放射性物質に対する反応であるが(これについては項を改めて述べたい)、今回のコロナウイルス騒ぎにおいてもゼロリスク信仰に基づく主張が多くなされている。

反発の理由として考えられるのはもう一つ、リベラル派の「個人の感情を政治に反映されるべき」という政治観である。リベラル派が主張する社会的な事柄――例えば格差是正や子育て支援、性的少数者の権利問題、放射性物質の問題――がなぜ争点化されるのかといえば、それは「私が苦しい」「怖い」という有権者個人の感情である。むろん憲法・自衛隊問題のように例外はあるが、リベラル派はおおむね個人の感情に重きを置いて政策などを主張することが多い。この際、数字で表されるデータとは相互補完の関係になることもあれば、水と油の関係になることもある。今回の「コロナはさざ波」に対するリベラル派の反応を見た場合、高橋洋一氏のツイートはリベラル派のゼロリスク的な主張を支える「コロナは怖い」「コロナで苦しい」という感情とは真っ向対立するものであった。したがって数字で表されるデータと感情とが水と油の関係になってしまったといえる。

この場合リベラル派はデータよりも感情を優先させてしまうことが多い。今回の「コロナはさざ波」発言の場合、人口比でのコロナ感染者数の比較ということを無視し、「日本の私たちはこれだけ苦しんでいる」という感情を前面に押し出した主張を以て高橋洋一氏の議論を批判したということがあげられる。ミクロ的な個人の感情とマクロ的な社会全体の動向、どちらを優先させるかということに関しては多々議論はあるだろう。保守派でもミクロ的な個人の感情を優先させるべきだと考える人もいるだろう。リベラル派でも社会全体のマクロ的な動向を重視すべきだと考える人もいるかもしれない。ただ、総体として考えた場合、リベラル派はミクロ的な個人の感情を重視する傾向にあると考えられる。むろん、政治は個人の感情にも最大限配慮すべきと考える。しかし政治はマクロ的な社会全体の動向を踏まえて行わなければならない。そして社会全体の動向を表すのは個人の感情というよりも数字で表されるデータであることが多い。

「コロナはさざ波」に反発するリベラル派という構図から浮き彫りになったのは、個人の感情というミクロ的なものを優先させすぎるあまりマクロ的な社会の動向という視座を見失ったリベラル派の体たらくである。むろん、憲法問題や自衛隊問題のように、保守派の方が個人の「怖い」という感情を優先させている場合もある(保守派が主張する9条改変・軍拡の議論を支えるのは、往々にして近隣諸国を「怖い」と思う感情である)。しかし全体的に見た場合、リベラル派の方がよりミクロ的なものに拘泥しすぎるきらいがあるといえる。

社会の姿を正しく見つめて提言するためにはミクロ的な視座のみならずマクロ的な視座も必要である。リベラル派はもちろん保守派にも、マクロ的な視座を絶えず持ち続ける覚悟が求められる。そして教育現場でもマクロ的な視座を涵養する教育を推進すべきである。