マルクス・ガブリエルの新実在論は綺麗ごとなのか

哲学と聞くと、何か堅苦しく、とっつきにくいイメージを持つ。しかし、現在日本のメディアで引っ張りだこになっているドイツ人哲学者マルクス・ガブリエルの扱われ方を見ると、元来哲学が持つ硬派なイメージが崩れてきたかのように思われる。

Wikipediaより

ガブリエル氏は史上最年少でボン大学の正教授の職を得た気鋭の哲学者であり、彼の出版する本は母国ドイツの国境を越えてベストセラーとなり、日本ではNHKが彼にフォーカスしたドキュメンタリーを制作、メディアの寵児とまで言われている。

そんな彼が主張し、注目を集めているのが「新実在論」と呼ばれる考え方である。

新実在論とは

新実在論を理解するためにはまずは実在論というものがなにか、何をもって新実在論が「新」なのかについて問う必要がある。まず初めに、実在論とはが存在するものを受け入れいること、すなわち事実を事実として認めるということである。しかし、この考え方は時に有害なものを内包する危険性があるとガブリエル氏は示唆する。

目の前で起きている事実をそのまま認めるということは、事実から乖離して行動、発言している人間の存在を許容することを追認することにつながる恐れがある。そして、同時に異なる視点が共存することを是とする考え方を彼は相対主義と呼び、民主主義に対する脅威となりうると警鐘を鳴らす。

また、この実在論に対する彼の問題意識を触発させたのが「ポスト真実」という客観的事実より、個人の感情や思い込みへの訴えかけが影響力を持つ現象であり、フェイクニュースの浸透や歴史修正主義的な見解の普及などに形を変えて現代社会にダメージを与えているとガブリエル氏は主張する。

そのような問題意識から派生したのが、新実在論を構成する二つ目のテーゼであり、それこそがテーゼが新実在論が「新」となりうる理由である。実在論のように何でもかんでも内包するのではなく、その内包されるものの中に事実に基づかない物事が含まれていることを認識する、というのが新実在論を構成する二つ目の重要な要素である。つまり、存在するものが全て真実でなはいことを理解するということが新実在論を新実在論たらしめる理由である。また、客観的事実の追求に向けての努力が失われつつあるという懸念が共有されはじめている今だからこそ、彼の新実在論が注目を浴びているのであろう。

確かに客観的事実というものは無くてはならないものだし、その必要性は否定しない。しかし、客観的事実の重要さを訴える新実在論を俯瞰して見たとき引っかかる点がいくつかある。

ポスト真実は最近の問題なのか

ひとつが、ポスト真実をあたかも最近発生した問題であるかのようにガブリエル氏のみならず、ガブリエル氏を持ち上げる人が考えていることである。上記で述べたように、ガブリエル氏が新実在論という考え方を打ち出した背景には、客観的事実の重要性が薄れてきているという認識が彼にあるからであると推測する。また、彼がメディアから注目を集め始めたのは、ガブリエル氏の持つ懸念を一定数の人が共有し始めたことが関係していると筆者は考える。

しかし、客観的事実より思い込みや感情が先行するという現象は今に始まったことではなく、歴史的に幾度となく見られたものである。

例えば、ポスト真実が顕在化していると言われるアメリカの歴史を振り返ろう。20世紀の始めに日本が日露戦争で勝利したことを受けて、アジア人が白人を支配するのではないかという黄禍論が吹き荒れ、アジア人排斥の動きが全米規模で高まった。

1930年代には太平洋横断に成功したリンドバーグや自動車王フォードといった人物が反ユダヤ主義的な主張を堂々と行い、しまいには両者はナチスから勲章を授与されている。また、両者はそのような主張をしながらも大統領選を視野に入れるほど国民からの人気を集めている人物たちだった。それは反ユダヤ的な言説が国内で一定の支持を得ていた証拠である。

また、1950年に入ってから朝鮮戦争が勃発した後、今度は共産主義に対する恐怖心にアメリカ人は苛まれ、国内での共産主義者の摘発、通称赤狩りが横行し、共産主義のレッテルを張られた人物は職を追われた。

黄禍論、反ユダヤ主義の普及、赤狩りの活発化、これらすべてに共通しているのは事実に基づかない、純粋な憎しみ、恐怖心などといった感情が誘発した現象であるということだ。トランプがポスト真実の時代を招いたのではなく、それは過去からの遺物であり、アメリカのみならず他の国でも似たような現象は歴史を通じて見え隠れするのである。

客観的事実を社会で共有することは可能か

さらに、新実在論は客観的事実の重要性を説くが、民主主義社会において客観的事実という唯一無二の解にたどり着くことが可能なのかという疑問も湧く。

君主制や寡頭制のような少人数が物事を決める社会であれば、一つの解を共有することは左程難しくない。しかし、それは現代民主主義という時には何億という人々の見解をすり合わせることを要する政治体制では至難の業である。

さらに、全体主義の国であれば国家の力で無理やり特定の思想を国民らに植えつけることができるが、表現、思想の自由を謳う民主主義社会ではそれが認められず、結果的には客観的事実を信じない人々の存在を許容しなければならなくなる。そのため、客観的事実への回帰を主張する新実在論が空虚なものに聞こえてしまう。

それでも目指すべき理由とは

しかし、いくら客観的事実の共有自体が綺麗ごとだとしても、その綺麗ごとを掲げることをやめた時点でより有害な言説が社会にまき散らすことにつながる。そのため、いくらガブリエル氏が提唱する新実在論のテーゼが遥か遠くの目標だと思えようとも、漸進的にそれに向かって社会全体が不断の努力を続ける必要がある。そういう意味でフェイクニュースが蔓延し、何を信じたらいいか分からない世界においてガブリエル氏、そして彼が掲げる新実在論はは一種の希望の光なのかもしれない。

参考文献