労働組合の存在意義

山崎豊子の「沈まぬ太陽」をお読みになった方はどれぐらいいらっしゃるでしょうか?700万部も売れた本ではありますが、典型的な昭和の作家故に若い方には遠い存在かもしれません。あの小説を「JALの御巣鷹山墜落の小説」と思う方がいたらそれは間違いです。実在する方をモデルに恩地元という主人公が労働組合に足を踏み入れたばかりに起きた不遇の社会人人生を書き綴った社会小説です。

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70年代までならば労働組合は当たり前でした。84年に入社した私でも労働組合へは強制加入、月々、3000円の組合費を天引きされていたのですが、その意味合いがどうしてもわかりませんでした。春闘で「満額回答!」というビラが毎年、お決まりのように廻って来るのですが、どう見ても経営側となれ合いの結果ですし、建設業界の労組と足並みを揃えたものでした。それで年間36000円も払うのか、とムカついていたのを覚えています。幸か不幸か、28歳で秘書になった瞬間、経営側に近いポジションということで非組合員となり、その後、海外に転出したので組合とは短いお付き合いでした。

当時、組合の委員長をやるような人材が将来人事部長あたりを経て経営陣に入り込める、とささやかれていたのですが、山崎豊子の小説を読む限り、それは真逆で主人公の恩地が組合員のための熱い思いを経営陣に厳しい姿勢で臨むばかりに「煙たがれる」存在となり、勝手に「アカ」のレッテルを貼られています。

そんな組合話はもう無縁かと思っていたところ今週号の日経ビジネスに「東芝子会社で突然の左遷、絶望の労働組合 寄る辺なき会社員の闘争」と銘打った記事があります。端的にまとめると東芝に入社し情報システムの構築や運用を手掛けていた方が出向で子会社に行きます。そこでもシステム構築業務をしていた頃、会社で早期退職を募集します。そこで上司に呼ばれ「君の席はもうない」と言われたというのです。年齢的にまだ40代後半で彼は会社にしがみつきます。すると、新設の追い出し部屋的な部署に配置転換させられ、パソコンが取り上げられ、代わりに雑巾を持たされ、コロナ感染予防ののドアノブ拭きや箱詰め作業、ラベル貼りをやらされているというのです。

問題はこの方が組合に相談しても組合が会社側に言い含められたのか、何も対応せず、最後は面談すら拒絶されます。更に組合の顧問弁護士にも相談するもののまともに取り合ってもらえなかったため、裁判に訴えたというストーリーです。

労働組合の存在意義が明白だったのは多くの労働者が均一の仕事をしていた時代でありました。80年代に私はそれを「金太郎飴」型ジョブと呼んでいました。嫌な表現ですが、それが当たり前だったのです。ところが労働の質は90年代から大きく変化します。コンピューターの登場とロボットの進化です。工場には万単位の労働者が足の動かし方まで厳しく指導されながら画一的な労働をしていましたが、ロボットが導入され、24時間365日疲れを知らないこの機械に労働は取って代わっていきます。

管理部門でも大型コンピューターの普及で事務処理は急激な効率化が進み、経理はそれまでの電卓手計算から会計ソフトが処理するようになり部員は半分とか1/3で済むようになります。他の管理部門も概ね同じで、個人精算はオンライン、稟議もよほどでない限り手廻しなんてしません。机の上はパソコンがあるだけで業務に携わる人は業務の狭い分野の深掘りを要求されます。となれば労働の画一性は崩れ、年齢やベアという考え方から同一労働同一賃金と業務査定による個人評価時代に代わっていきます。

労働組合は組合員の画一性をその活動の前提としています。それゆえに60年代から70年代にかけて業務ごとに労組が分かれ、労組が経営の足を引っ張るのです。その典型がJALや日産で経営悪化につながっていきました。

では最近の労組は何を目指しているのか、といえば春闘やベアより働き方改革に重きを置いており、それこそLGBTQや労働環境の改善といった点にシフトしているようですが、これはコーポレートガバナンスの一環でもあり、社会的要請の圧力の方が大きく、労組でなければだめということにもなりません。

むしろ、世間の目の方が怖いわけでブラック企業のレッテルを貼られてしまうと新入社員や中途採用が滞り、業容拡大ができません。つまり経営側は自助修正機能が備わってきたともいえ、労働組合の存在意義は現代社会においてかなり薄れてしまったと言わざるを得ません。

労働者にとっては、物価高にもならない日本の社会において正社員のステータスとそれなりの賃金、そして労働する場が与えられている状態は「多少の不満があっても飲み込める」とも言えます。日経ビジネスにJR東の労組がストをちらつかせたら組合員が大量脱退したという珍事があったのはその典型なのでしょう。

冒頭の東芝の方のようにラインの仕事ではないような場合、個人能力が強く問われる時代となっており、振り落とされるケースは今後、無数に増えてくると思います。政治家が選挙で泣き笑いをし、出世競争では椅子は一つしかない社会は昔から変わりません。昔はそれは「別世界」だと思い、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という植木等の世界の延長戦にある労働者の環境は今や、真逆にあることを認識しなくてはいけないのでしょう。逆に最近の日本の左傾化の背景の一因はそこにあるのかもしれません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年6月21日の記事より転載させていただきました。