西村宮内庁長官の発言については、当日24日 18時35分の朝日新聞デジタルに詳報がある。原文はそのサイトでお読み願うとして、筆者が問題と考える発言後半の箇所を以下に引用する。
(質問)陛下が五輪が感染拡大のきっかけになるのを懸念されているというのは長官の拝察ということか
(長官)拝察です。日々陛下とお接しする中で私が肌感覚として受け止めているということです
(質問)仮に拝察でも長官の発言としてオンだから、報道されれば影響あると思うが、発信していいのか
(長官)はい。オンだと認識しています。私はそう拝察し、感染防止のための対策を関係機関が徹底してもらいたいとセットで
(質問)これは陛下のお気持ちと、受け止めて間違いない
(長官)私の受けとりかたですから。陛下はそうお考えではないかと、私は思っています。ただ陛下から直接そういうお言葉を聞いたことはありません。そこは誤解ないようにお願いします。
筆者が問題視するのは、①「陛下が五輪が感染拡大のきっかけになるのを懸念されている」との西村長官の拝察について、記者から②「報道されれば影響あると思うが、発信していいのか」と念押しされているにも関わらず、それを承知で発言していることだ。
因みに①は長官の発言を、記者が丸めて言い直している。よって、もしニュアンスに違いがあるなら、例えば「陛下は感染の拡大を心配なさっている。またオリパラについては安心安全な大会を願っておられる。そう拝察する」とでも訂正した上で答えるべきだろう。
これなら感染拡大とオリパラ実施が意識的に切り離されているし、それは国民誰もが思うことだ。さもないと、記者が丸めた一説だけが独り歩きすることになり勝ちだ。が、長官は何の訂正もしていない。
その結果、「陛下が五輪が感染拡大のきっかけになるのを懸念されている」との記者が丸めた拝察の一説が、巷間では「拝察」ということすら抜けて流布し、あたかも陛下ご自身がその様に発言なさったとの印象を与えてしまう。
まして日本は目下、コロナ禍でのオリパラ開催と中止とが世論を二分して燃え上っている状況だ。そこへ「陛下が五輪が感染拡大のきっかけになるのを懸念されている」との油が注がれれば、政府が決めている五輪開催に陛下が異論を唱えている、との構図が形成されかねない。
これまさに「天皇の政治利用」。そもそも論をいうなら、西村発言の拝察部分すべてが「言わずもがなの蛇足」だ。宮内庁長官たる者、陛下のお考えを拝察し、それを公表するなど以ての外といわねばならない。以下にその理由を述べる。
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まず宮内庁とはいかなる組織か。「内閣府設置法」は第48条の「宮内庁は、内閣府に置かれるものとする」から第61条まで宮内庁について述べ、第51条(任務及び所掌事務)に「委員会及び庁の任務及びこれを達成するため必要となる所掌事務の範囲は、法律で定める」とある。
この「法律」とは「宮内庁法」を指し、第1条2項に「宮内庁は、皇室関係の国家事務及び政令で定める天皇の国事に関する行為に係る事務をつかさどり、御璽国璽を保管する」とある。第2条には所掌事務20項目が挙げられるが、「陛下のお考えを拝察して公表する」などとは書かれていない。
さて、今上陛下は神武天皇から数えて第126代目。象徴天皇3代目などとする論はさて措き、今上陛下の祖父昭和天皇は、ちょうど百年前の21年11月に大正天皇の摂政に就かれた。産経新聞が毎週土日に連載中の「孤高の国母」では、この土曜の93回目辺りがこの話になりそうだ。
現代の天皇陛下像を日本国民の胸に焼き付けたのが昭和天皇であることは誰もが首肯するだろう。それは陛下が国民に全幅の信頼をおき、いつも国民の安寧をお祈り下さるからだ。国民も行住坐臥、この陛下の信頼にお応えすることを心して暮らしている。
その昭和天皇が政治にご意志を反映させたことが、筆者の知る限り4度ある。戦前の旧憲法下でも天皇の権限は決して万能ではなく、天皇を輔弼する内閣が一致して決定したことには、たとえ異論があろうとも裁可なさることとなっていて、昭和天皇もそれを墨守した。
が、1928年6月に満州で起きた張作霖爆殺事件で陛下は始めてそれを破った。「昭和天皇独白録」(文芸春秋)には、陛下が次のような趣旨を述べたと書かれている(一部捨象している)。
-田中(義一)総理は、最初河本(大作大佐)を処罰し、支那に遺憾の意を表すつもりだといったが、日本は立場上、処罰は不得策と閣議でなった。田中が再び来て、問題をうやむやに葬りたいというので、それでは前と話が違うではないかと語気強くいった。若気の至りだったと今は考えているが、それで内閣総辞職した。この事件があって以来、私は内閣の上奏するところのものは、たとえ自分が反対の意見を持っていても、裁可を与えることを決心した。-
明治憲法には「天皇ハ文武官ヲ任免ス」と第10条にあり、首相罷免もできた。が、実際は一度もそういう事例はなく、この時も陛下は田中を罷免した訳ではなかった。が、田中は恐懼し、陛下の信任を失ったとして内閣を総辞職し、まもなく亡くなった。
残りの3度はご聖断だ。1度目はその8年後の二・二六事件。これも前掲「独白録」にあるご発言の趣旨はこうだ。
-叛軍に対して討伐命令を出したが・・これは戒厳令とも関係があるので軍系統限りでは出せず、政府との諒解が必要である。が、当時岡田(啓介総理)の所在が不明なのと、陸軍省の態度が手緩かったので厳命を下した訳である。-
ポイントは岡田総理の所在不明。後に斎藤実内大臣と高橋是清蔵相も凶弾に倒れていたと判明する。つまり、天皇を輔弼するべき内閣が瓦解していた。となれば自らの判断(聖断)を下すしかなく、これは憲法にも、従来の慣行にも反しない。
2度目は45年8月9日のポツダム宣言受諾だ。正確には、会議は日を跨ぎご聖断は10日の午前2時頃。「独白録」によれば、受諾の条件として国体護持に加えて、「補償占領を行わない、武装解除と戦犯処罰とを我が方の手で行う」ことを加える件で意見が真っ二つに割れた。
鈴木貫太郎首相は自身の判断を留保し、陛下にご聖断を仰ぐ。陛下は「外務大臣の案(受諾)に賛成する」と述べた。3度目は8月14日のご聖断だ。9日の会議で付けた国体護持の条件を「米国ではその意味が分からず、連合国の立場は斯くの如しと言って来た」(独白録)。
「連合国の立場」は「日本政府の形態は日本国民の自由意思により決められるべきだ」ということ(「昭和天皇語録」講談社学術文庫)。これに平沼枢密院議長や陸海両大臣から、共和制に導くものとして強い反対意見が出されたのだ。陛下はこう述べた。
-それで少しも差し支えないではないか。たとえ連合国が天皇統治を認めて来ても人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意思によって決めてもらって少しも差し支えないと思う。-(木戸幸一関係文書)
国民に全幅の信頼をおく陛下の面目躍如。後に上皇陛下が譲位のお気持ちを述べられたことを筆者は釈然としなかった。が、今上陛下のご様子を拝見するに連れ、その気持ちは薄らいだ。その今上陛下が、政府の決めたオリパラ開催を左右するようなお考えを持ちになるはずがない。