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もしトルーマンがステティニアスの後任の国務長官に、バーンズでなくグルーを昇格させていたら歴史はどう動いただろうか。1945年3月下旬に始まる沖縄戦の前は無理だとしても、その直後か少なくとも原爆が使用される前、恐らくは原爆が完成する前に日本の降伏が実現していた可能性が高いと筆者は考える。
ローズベルトが生きていたらその確率はさらに高まる。そうなれば広島・長崎での原爆の惨禍も起きなかったし、期限を残した日ソ中立条約を破って満州や樺太や千島列島に殺到したソ連軍の蹂躙もなかった。歴史にイフは禁物だが、そんなことを夢想しながら74年前を振り返るくらいは許して欲しい。
ジョセフ・グルーは1880年5月にボストンの名士の家に生まれ、ローズベルトより2年早い1902年にハーバードを出て外交官試験に合格し国務省に勤務した。トルコ大使を経て32年に駐日特命全権大使として来日、日米開戦で42年6月に駐米大使野村吉三郎らとの戦時交換で帰国するまで10年間在職した。
昭和史の一級史料である彼の日記「滞日十年」は1944年5月の上梓だ。着任早々の天皇謁見に始まり、二・二六事件や盧溝橋事件から日米交渉決裂を経て日米開戦に至る激動の10年間に、多くの日本人と友誼を結び、日米関係の悪化を食い止めるべく奔走した日々をグルーはそこに克明に記した。
まだ戦時中だった同書の出版は、宋美齢の米国講演などの影響で親中反日傾向が顕著な米国民を対日融和に向かわせることを企図していた。上下2冊の書物が日記全体の中から1割ほどを選んだに過ぎないことがそれを窺わせる。日本の知友へのシグナルになりそうな個所をピックアップして編んだのだ。
ところで、城山三郎の著作に東京裁判で文官唯一の刑死者になった廣田弘毅の生涯を描いた「落日燃ゆ」がある。新潮社から74年に刊行された。85年8月12日の記録映画「東京裁判」のテレビ放映から程なくしてこの本のことを知った筆者は、行く先々の本屋を探し回り漸く手に入れたのを覚えている。
その書き出しは処刑翌日の横浜久保山火葬場での出来事だ。占領軍は1948年12月23日の夜中に処刑してその朝に荼毘に付した。が、後々偶像視されるのを恐れて遺灰を遺族に渡さず、ニュルンベルグでの顰(ひそみ)に倣って空中散布した。ところがその遺灰の残りを捨てた穴からそれを掘り出した者がいた。
このエピソードは城山が、東京裁判で日本側主任弁護人だった清瀬一郎の著書から引いたものだ。清瀬の「秘録東京裁判」には、小磯担当弁護人で保土ヶ谷在住の三文字正平が処刑翌日クリスマスイブの隙を突いて遺灰の残り一升ほどを掘り出したと書かれている。三文字は、受け取りを辞退した廣田家を除く6遺族に一部を渡し、残りを松井石根が日中両戦没者慰霊のために熱海に建てた興亜観音に隠したのだった。
さて、廣田は公判を通して傍聴席の娘二人と目を合わせるだけで、終始沈黙を貫いた。罪状認否で“無罪”と発することすら拒んだのだが、城山はその理由をこう廣田に言わせている。
たとえ自衛戦にせよ、戦争を正当化できない。自分には戦争を防止し得なかった責任がある。私は自分からしゃべるつもりはない。しゃべれば、誰が強いことを言った、誰がこうした、などと言わざるを得ない。それでは向こう(検察側)の作戦に乗ってしまうことになる。向こうは、こちらが責任をなすりあうのを狙っているから、それには乗らないよ。
話をグルーに戻そう。「落日燃ゆ」にはグルーと廣田との交友関係も描かれている。城山は33年から36年まで外務大臣を務めていた廣田が、34年2月にソ連からの東支鉄道買収交渉を再開した件について、グルーの「滞在十年」から引いてこう書いて。
ソ連を説得するだけでなく、国内のこうした勢力をなだめながら、とにかく交渉をまとめて行こうというのである。荷の重い、そして根気の要る仕事であった。廣田はその役割に耐え黙々と努力し続けた。こうした廣田の姿についてグルーは友人宛に次のような手紙に書いた。
この数カ月間、廣田は絶え間なく、また私(グルー)の見るところでは真摯に、中国、ソ連、英国及び合衆国と取引する友好的な基礎を建設することに努めました。彼の打った手は、新聞の反国主義の調子が即座に穏やかになったことや、日ソ間の諸懸案を一つ一つ解決しようという努力が再び取り上げられたことに現れ、また廣田と私との会談で、日米関係を改善に導く何らかの可能的通路を見出そうとする熱心さを見せたことによって、強調されました。廣田が本心からの自由主義者で、小村、加藤以来の名外相だと考える人もいました。
グルーと廣田の友誼は竹山道雄の「昭和の精神史」にも出て来る。東京裁判の判事の一人で廣田ら数名の無罪判決を書いたオランダ代表のレーリンクは、偶さか休日に訪れた鎌倉の海岸で竹山と出会い親交を深める。法律家としての守秘義務からか竹山の話の聞き役になることが多かったレーリンクとのやり取りを竹山はこう書く。
極東裁判のオランダの判事のローリング(注・レーリンクのこと)氏は、あの極東裁判の判決に反対した少数の一人だった。そして私は、あの人があの反対意見を持つに至った少なくとも最初の動機は自分だったのだろうと思っている。
初めのうちは裁判の話をしなかった二人だが、ついにその話になって竹山が発した「いま法廷に座っている人々の中には、代罪羊(スケープゴートの意)がいると思います」との言に、それまでそういう見方をしていなかったらしいレーリンクは意外そうに竹山を見た。竹山はこう言葉を継いだ。
圧倒的に強い勢力が国を引きずっているときに、それに対して反抗したり傍観したりしても、それによっては何事もなされなかった。あの条件の下で残された唯一の可能な道は、その勢力と協力して内から働くことによって、全体を救うことだった。広田氏はそれをした人だと思う。
竹山の話を注意深く聞いたレーリンクは、その場では何の意見も述べたかったが、オランダがナチスに占領された当時のことを「そのように考えて行動した者がオランダ人にもいた」と述べたと竹山は書く。そしてグルーが廣田の助命に尽力したことにこう触れている。
判決の後に、(レーリンク)氏は沈痛な面持ちで「グルーが廣田のために最高司令官に電報をうってきた」と話してくれ、「自分は出来るだけのことをしたが…」と言っていた。帰国の前に氏は、その少数意見を私にも一部くれた。
この意見書の中には、私が氏に向って言った言葉が二つ入っている。それは、「彼(廣田)は魔法使いの弟子であった。自分が呼び出した霊共の力を抑えることが出来なくなったのである」また「もし外交官が戦時内閣に入ればそれは戦犯の連累であるという原則がうちたてられたなら、今後おこりうる戦争の際に、戦争終結のためにはたらく外交官はいなくなるだろう」というのである。判決は私にははなはだしい不当と感ぜられた。しかし、何分にも歴史の真相を知っているという自信はないのだから、黙っているほかはなかった。
レーリンクが「その少数意見を私にも一部くれた」訳はこうだ。ウェッブ裁判長は7日間掛けて膨大な判決文を朗読した。が、この判決文は全員有罪を主張した多数派の手になるもので、全員無罪としたパルや一部を無罪としたレーリンクらの少数意見は読まれず、世間の目に触れることはなかった。
グルーのことを書くつもりがいつの間にか廣田や竹山やレーリンクの話になってしまったが、グルーの知日ぶりを示す格好のエピソードということでご容赦願いたい。返す返すも残念なのでもう一度夢想してみたい。もしグルーが国務長官になっていたら歴史はどう動いただろうかを。(完)
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。
【参考文献】
「パル判決書 上下」(東京裁判研究会 講談社学術文庫)
「東京裁判への道」(粟屋憲太郎 講談社学術文書)
「私の見た東京裁判 上下」(冨士信夫 講談社学術文庫)
「東京裁判 日本の弁明」(小堀桂一郎 講談社学術文庫)
「国際シンポジウム 東京裁判を問う」(細谷、安藤、大沼 講談社学術文庫)
「秘録 東京裁判」(清瀬一郎 中公文庫)
「パール判事の日本無罪論」(田中正明 小学館文庫)
「東京裁判 勝者の裁き」(リチャード・マイニア 福村出版)
「東京裁判」(日暮吉延 講談社現代新書)
「東京裁判 上下」(児島襄 中公新書)
「ディベートから見た東京裁判」(北岡俊明 PHP研究所)
「東京裁判を批判したマッカーサー元帥の謎と真実」(吉本貞昭 ハート出版)
「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々)」(ロバート・スティネット 文藝春秋社)
「日本人を狂わせた洗脳工作」(関野通夫 自由社)
「滞在十年 上下」(ジョセフ・グルー ちくま学芸文庫)
「落日燃ゆ」(城山三郎 新潮社)
「昭和の精神史」(竹山道雄 講談社学術文庫)
「日本経済を殲滅せよ」(エドワード・ミラー 新潮社)
「なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか」(日高義樹 PHP研究所)
「太平洋戦争とは何だったのか」(クリストファー・ソーン 草思社)
「昭和史を読み解く」(鳥居民 草思社)
「日米開戦の謎」(鳥居民 草思社)
「昭和二十年 第一部・12」(鳥居民 草思社)
「アメリカの鏡・日本」(ヘレン・ミアーズ 角川学芸出版)
「マオ 誰も知らなかった毛沢東」(ユン・チアン&ジョン・ハリディ 講談社)
「コミンテルンとルーズベルトの時限爆弾」(江崎道朗 展転社)
「歴史の書き換えが始まった!コミンテルンと昭和史の真相」(小堀桂一郎・中西輝政 明成社)
「ヤルタ-戦後史の起点」(藤村信 岩波書店)
「ホワイトハウス日記1945-1950」(イーブン・エアーズ 平凡社)
「ポツダム会談」(チャールズ・ミー 徳間書店)
「黙殺 上下」(仲晃 日本放送出版協会)
「戦後秘史 ②天皇と原子爆弾」(大森実 講談社)
「日本人はなぜ終戦の日付をまちがえたのか」(色摩力夫 黙出版)
「奇蹟の今上天皇」(小室直樹 PHP研究所)
「天皇ヒロヒト 上下」(レナード。モズレー 角川文庫)
「宰相 鈴木貫太郎」(小堀桂一郎 文春文庫)
「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料 上」(原書房)
「Foreign Relations of the United States: Diplomatic Papers, Potsdam/Yalta」(ネットサイト)
「VENONA」
「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」(ロナルド・タカキ 草思社)
「ダブル・ヴィクトリー」(ロナルド・タカキ 星雲社)
「トルーマン回顧録」(恒文社)
「ハル回顧録」(中央公論新社)
「ハルノートを書いた男」(須藤眞志 文春新書)
「外交回想録」(重光葵 中公文庫)
「昭和の動乱」(重光葵 中公文庫)
「侍従長の回想」(藤田尚徳 講談社学術文庫)
「機関銃下の首相官邸」(迫水久常 ちくま学芸文庫)
「第二次世界大戦1-4」(チャーチル 河出文庫)
「ヤルタ・ポツダム体制と日本の戦後レジームを考える」(芦田茂 文芸社)
「米国の日本占領政策 上下」(五百旗頭真 中央公論)
「東京裁判」(レーリンク 新曜社)
「東京裁判、戦争責任、戦後責任」(大沼保昭 東信堂)
「東京裁判、戦争責任の思想」(大沼保昭 東信堂)
「鈴木貫太郎自伝」
「ダレス兄弟」