新しくなった新国カルメンの二回目の公演。初日には演技のみの出演だったドン・ホセ役の村上敏明さんが無事回復し、本格的なスタートを切った感のある舞台だった。カルメン役のステファニー・ドゥストラックは「ハバネラ」でこそ緊張気味だったが、「セギディーリャ」から調子をどんどん上げていき、ゲネプロのときよりかなり悪女っぽい仕上がりになっていた。ミカエラ砂川涼子さんは「神々しい」の一言に尽きる。スニガ妻屋秀和さんも毎回ハズレのない見事な演技で、フラスキータ森谷真理さん、メルセデス金子美香さんも細かい演技を魅惑的にこなしながら最高の歌を披露した。
オリエ演出に目が慣れたこともあり、この本公演ではピットの大野和士オペラ芸術監督の魔性の音楽作りに改めて惹きつけられた。どのフレーズにも意外性と驚きがあり、テンポは篭絡的で、オーケストラそのものが巨大な「悪の華」を表現していた。東フィルの変幻自在ぶりは本当に凄い。音楽が次から次へと新しい期待を呼び、新鮮で豊かな響きが泉のように湧き出してくる。こんなものを書いたビゼーは、天才を通り越して一種の超人ではないかと思った。ひとつの動機から音楽が無際限に発展していく成り行きが、尋常ではない。当たり前のように聴いていた「カルメン」のすべての曲が、全く当たり前には聞こえなかった。
フランス語の台詞も入るが、2011年にボローニャ歌劇場の来日公演で見た版よりはストレートな芝居は少ないという印象。レチタティーヴォ版とオペラ・コミック版の中間のような版だろうか。このオペラが失敗作とされ、3か月後にビゼーが死んでしまったことを考えると、そんな不条理があっていいものかと思う。大野さんはリヨン歌劇場との『ホフマン物語』のときもオッフェンバックの無念の魂と交信し、アンコールで作曲家に変装して出て来るほどの憑依ぶりだったが、ビゼーに関してもそれくらいの入れ込みようだったと思う。
欠点らしい欠点などなかった鵜山仁演出を新しくして、現代日本を舞台にした新演出にしたことには勿論大きな意義がある。以前のカルメンも素晴らしかったが、新演出では大きな緊張感が出る。ポネルのフィガロやゼッフィレッリのアイーダやトゥーランドットは伝説だとして、オペラは「劇場が生きている」ことを示すためにも新しくすることが望ましいのだ(こういう表現すると「劇場に媚びている」などと言い出す人もいるのを承知で言う)。ゲネプロでは、かなり多くのスペイン勢スタッフがテクニカルに入っていた。演出家の助手だけでなく、美術や照明の助手もいたはずだ。鉄製の巨大なケージが舞台全体を覆うこの演出では、事故がないように舞台を作り上げるだけでもかなりのストレスだったと想像する。
面白いのは、アレックス・オリエがコンセプトとして語っていた「男性による女性への暴力」という要素が、最終的にほとんど浮かび上がってこなかったことだ。ビゼーのオペラが、そのように書かれていない。ホセの村上さんはオリエの解釈ではかなり葛藤したと思うが、結果的に音楽そのものがコンセプトを凌駕した。
オリエがカルメンを自由の象徴として描き、ホセをマチズモの象徴として描きたかったのにも理由があるだろう。オリエは「善悪」ということに強くこだわり、自由(民衆)と体制(政権?)のコントラストにもこだわる。フランコ独裁政権後のスペインで自由の意味は重要であり、両親からも「自由の大切さ」を躾けられたと語る。スペインにおいてその精神は、むしろ芸術的にはマジョリティだったはずで、オリエはキャリア的にも全然マイノリティ側の演出家ではない。
一方、大野さんの音楽はつねに善悪の彼岸で鳴っていて、「紫苑物語」や「リトゥン・オン・スキン」では毒気が強すぎて個人的にはついていけなかった。善とか悪とかが問題ではなく、しかじかの魂の特性があるだけだ、という超=道徳的な価値観を大野さんの指揮からは感じる。カルメン解釈という点で、オリエとは対極の精神性だと思う。
このカルメンは「対極でありながら、なぜか調和してしまったコンセプト」の不思議な達成物であった。演出は骨っぽい装置をともないながら善悪を厳しく分けようとし、ピットの音楽は毒と優しさと妖艶さによって鉄骨を柔らかいレースにしてしまう。それが不調和ではなく、二つのベクトルをのみ込んだ巨大な次元を創り出していた。オリエはよく戦った。戦わなければオペラは生まれないし、ホセはカルメンに出会わなければ人生がどんなものかを理解しなかった。オリエの強靭さを、大野さんの寛大さが包み込み、さらにビゼーがその全体を祝福していたオペラだった。
ラスト近くで闘牛士エスカミーリョとカルメンが「愛しているよ」「愛しているわ」と歌う短い歌はモーツァルト・オペラのような天上の音楽で、モーツァルトならばハッピーエンドに終わるはずだが、永遠の平和は訪れない。エスカミーリョの王国に入城しかけたカルメンを、地を這うようなホセの歌が追いかける。ビゼーは本当にオペラの天才だった。散逸したものも含めて30作のオペラを書いたともいう。リストに未来の天才ピアニストと賞賛されながらも、オペラへの愛を貫いて突っ走り、沸騰する才能を賭けて書いた遺作がこれなのだ。偉大なる「ミスターB」の遺言が、21世紀の日本で再現された。若い人たちにも是非観てほしい。
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【新国立劇場ジョルジュ・ビゼー『カルメン』(新制作)】
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編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年7月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。