出演者の一人に感染症の陽性反応が見られたため、初日(7/16)の公演が中止となり、二日目のキャストが実際の初日公演を務めることになった。タイトルロールは黒田博さん、フォード小森輝彦さん、フェントン山本耕平さん、アリーチェ大山亜紀子さん、ナンネッタ全詠玉さん、クイックリー夫人 塩崎めぐみさん、メグ金澤桃子さん、ピストーラ狩野賢一さん。レオナルド・シーニ指揮・東京フィルハーモニー交響楽団。ロラン・ペリー演出はテアトル・レアル、ベルギー王立モネ劇場、フランス国立ボルドー歌劇場との共同制作。ボルドー歌劇場の3月の上演は見送られたため、日本公演がフランスより先になった。
冒頭シーンは、狭くてさびれた英国のパプのような場所から始まる。バルドルフォはロカビリーヘアの若者だ。衣裳の中にたくさん詰め物をしたであろう黒田さんは球体状の大きな身体となって、酔いどれ顔のメイクで、不機嫌にパブの椅子にへばりついている。その様子を見て、何かひどく心が疼いた。黒田さんのファルスタッフは喜劇的というより、もっと違うのものを表しているようで、怒りを込めた鋭い歌唱の一語一句から「俺は男だ!」という厳粛な意志が感じられた。
カロリーネ・グルーバー演出の黒田さんの凄いドン・ジョヴァンニが思い出され、ファルスタッフの中にもドン・ジョヴァンニの面影を見つけた。「小姓だった頃の私は細くて蜃気楼のようで、指輪もすり抜けられた」という歌詞が、今までと別なふうに聴こえる。騎士ファルスタッフはケルビーノのような美少年で、やがてドン・ジョヴァンニとなり、今や時間という哀しみを身体に溜め込んで必死に人生の最後の楽しみを探している。
ファルスタッフが演劇性の強いオペラであるからだろうか。役者の魂の重さということを考えさせられた。黒田さんの魂の質量が、ファルスタッフをただの風船じいさんにさせていない。完璧な見た目のアンブロージョ・マエストリがスカラ座の来日公演でこれを歌ったとき、巨体の歌手はなんと身軽に楽しそうに役をこなすのかとワクワクしたが、黒田さんはそうではなかった。喜劇的な老人の讒言として解釈してきた歌詞が、人間の真実の訴えに思えた。
ロラン・ペリーの演出は冒頭から冴えていたが、ファルスタッフの役作りに関してだけは、演出家の意図通りだったかは分からない。ロラン・ペリーは黒田さんのことをそんなに知らないはずだ。私の方が詳しい。黒田さんのパパゲーノやフィガロ、ドン・ジョヴァンニにスカルピアにシャープレスに、フェレイラ神父や金閣寺の溝口のお父さんまで観てきた。
このファルスタッフを見て悲鳴をあげたくなった。自分が過去に見てきた黒田さんが一斉にフラッシュバックしたからだ。パパゲーノはパパゲーナに会えなくて首吊り自殺を試みるし、アムフォルタスは誘惑に愚弄されてわき腹から血を出し続ける。女たちから嘲笑されるファルスタッフの中に、パパゲーノやアムフォルタスの影を見た。
ベルトラン・ド・ビリーの代役としてピットに入ったレオナルド・シーニの指揮はモダンで精妙だった。イタリア出身の30歳で、パリ・オペラ座へのデビューも控えている新鋭だが、ヴェルディが最後のオペラでいかに新しいことをやろうとしていたかを教えてくれる音楽だった。
マエストロ・ゼッダは「ヴェルディはファルスタッフで偉大なるロッシーニの伝統に回帰した」と語ったが、オケも歌手のパートもロッシーニと似ているようで、そうでもなかった。3幕のはじまりのファルスタッフのぼやきは、極端にオケの音が少ない。アンサンブルが白熱する場面では、歌手もオケも拍をとるのが大変そうだ。ヴェルディは20世紀を肌で感じている。メンデルスゾーンへの敬意と、ワーグナーへの諧謔も感じられる。東フィルはカルメンチームも頑張っているが、二期会のほうも本気でやってる。木管セクションは神がかっていた。
若きシーニにとっても、日本に黒田さんのような歌手が存在するということは衝撃だったのではないか。もちろん、登場人物すべてが素晴らしい。妻を寝取られるかも知れないフォードの焦りは、舞台上に18人の「フォードの分身」を忍者ハットリ君のように登場させるというペリーの演出によって誇張されたが、フォードを演じる小森さんと黒田さんの本気の歌唱の応酬というのは見事だった。老人の成就しない恋を尻目に、思いきり若い愛を謳歌するフェントン(山本耕平さん)とナンネッタ(全詠玉さん)も鮮やか。ウィンザーの陽気な女房たち、アリーチェ大山亜紀子さん、メグ金澤桃子さん、クイックリー塩崎めぐみさんも素晴らしかった。9重唱では、奇跡が起こったかと思った。
これはヴェルディの貴重なアンサンブル・オペラの傑作であるには違いないのだが、オテロやリゴレットやマクベス同様に、ヴェルディ・バリトンの独断場の「英雄」物語で、ファルスタッフ以外の歌手たちは脇役として聴いた。それほどマエストロ黒田の存在感は圧倒的だった。
ファルスタッフはつねに雷神のように怒り狂っている。星の神話の中で、人間の70歳から84歳までを支配するのはウラヌス神で、ウラヌス(天王星)はジュピター(木星)より容赦なく好色な神である。サタン(土星)が支配していた56~69歳までの禁欲と謹厳さを突き破って、人生の終盤で大反乱を起こす。「名誉とはなんだ! 意味がない!」という神がウラヌスなのだ。これはびっくり神でもあり、ホルストが『惑星』書いた「魔術師」でもあり、雷神ドンナーでもある。黒田さんはドンナーも、ファルスタッフに込めていたかも知れない。
ファルスタッフが女たちを追いかけまわすのは、命のカンフル剤が欲しいからで、どんな英雄も身体が朽ちていくときに似たような反乱を起こすのかも知れない。真夜中の公園での逢引シーンでは、いきなり森が動き出した。『マクベス』の「バーナムの森が動いた!」という超常現象を、ペリーはファルスタッフで見せてくれた。この怪奇現象により、隠されていたことすべてが明らかになっていく。ファルスタッフを嘲笑していた人々はフリーザーの中で生きる冷凍人間となり、コケ色のガウンを着たファルスタッフだけが人間の体温を持っている。凍った姿のウィンザーの陽気な女房たちがハンドバッグでファルスタッフをぽこぽこ苛める場面でも、もうどちらがおかしいことをしているのか、歴然としていた。ロラン・ペリーは、ファルスタッフの滑稽な情熱の中に人間性の本質を見出し、貞淑や世間体や保護された立場に安住する人々を、硬直した冷凍人間として描いた。
黒田さんが舞台で見せてくれた頑迷な男、男、男たちがパノラマのように脳裏をめぐり、動いた森と凍った人間たちに囲まれて「みんな、だまされる!」と叫ぶファルスタッフの姿に号泣した。私は変態なのか。最後の10分はもう顔がずぶぬれになってしまった。ずっとだまされてきた。ファルスタッフは喜劇だと思い続けてきたのだ。かといって悲劇というのではないが、大笑いでは済まされない心をえぐるオペラだった。演出家も歌手も、本当に孤独を感じなければ真の表現を掴むことは出来ない。「裸の王様」が反転した見事な物語に、悲劇としてもその逆としても描かれうる「魂の孤独」を考えた。7/18にも上演あり。
編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年7月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。