全国の新規陽性者数が、日本国内の最高値を記録しながら拡大を続けている。死者・重症者ともに抑え込まれているので、煽りは禁物だ。だが、新規陽性者数を無限大に拡大させ続けていてよいわけではない。冷静な対応は必要だ。
今の日本の閉塞状況は、必要な対応策をとっていないことによって生まれている。誰もが必要だと知っている対応策を無視していることによって、生まれている。
必要なのは、憲法改正である。
新型コロナ危機が発生した一年半前から、新型コロナ対策としての憲法改正の必要性は皆がよくわかっていた。それなのに、先送りにし続けているので、問題が悪化し続けている。
私は、昨年の新型コロナ発生以来、「日本モデル」の動向をテーマにした文章をだいぶ書いた。その際、私が強調していたのは、「何が日本の長所で、何が日本の短所なのか」をはっきりさせ、「長所を伸ばし、短所を補う」戦略を構築すべきだ、ということだった。
残念ながら、事態は逆に進み続けている。
日本の長所は、強制力がなくてもマスクを着け続けるなどの基本的な感染症対策を怠らない良質な国民の存在である。日本の短所は、問題の本質をとらえて分析し、構想力を持って対策を提示して説明するリーダーの欠落である。
前者の強みを活かしながら、しかし負担増による疲弊で遂に崩壊する前に、後者の弱みを補うことが必要だった。
残念ながら、弱みの補強はなされないまま、国民の疲弊が高まり続けている。政治家は責任逃れの姿勢を改めず、知識人たちは「俺の方がお前より頭がいい」、「俺が専門家で、お前は専門家ではない、俺の言うことを聞け」、のマウント合戦だけに明け暮れている。
政策レベルで言えば、新型コロナ対策で必要なのは、感染症対応に全く脆弱な医療体制の強化だ。医師会などが抵抗勢力になるのであれば、それを乗り越える法整備が必要だ。
ロックダウンを行うのであれば、私権制限をしっかりと位置付ける法的根拠が必要であり、それがあって初めて整合性のある補償体制も正当化される。
二つの方向性に沿った施策をとるためには、緊急事態条項を憲法に導入することが必要だ。平時とは異なる緊急事態の法的位置づけがあって初めて、医者の権利主張と、営業者の権利主張を乗り越える政策を正当化する基盤が作れる。
このことについて、気づいていない日本人はもはやいないのではないか。
しかし野党第一党の立憲民主党は、「政府の新型コロナ対策は手ぬるいので、自民党には憲法改正の資格はない!」といった、いつもの固定ファンに訴えるだけの意味不明の立場を変えようとはしない。
これに対して自民党の菅首相も、20世紀の55年体制の構図のままだ。「まず新型コロナを解決します、そして憲法改正の必要がなくなったら、憲法改正に『挑戦』します」、といったことだけを述べている。現実の問題に対応するために憲法改正をする気概はなく、ただ憲法改正に関心を持つ投票者層をつなぎとめておきたいだけだ。
日本の新型コロナの被害は、国際的に見れば小さい。分科会の尾身茂会長とキーパーソンである押谷仁教授が道筋をつけた方向性にそって、国民が平均値の高い努力を行ってきたからだ。しかし、負担の偏りを無視して、現場の努力に依存するだけでは、長期的な試練には耐えられないことは当然である。
前線の努力で時間稼ぎをしながら、制度的な改善をしておかなければならなかった。一年前からわかっていたことである。
他国の人々のおかげでワクチンが開発され、大量生産が始まった。地方自治体レベルの現場の頑張りで、当初の予想よりも早いペースで接種も進められている。相変わらずの「日本モデル」のパターンとはいえ、不幸中の幸いではある。
しかし、これを政治の怠慢をさらに先送りにする要因にしてはいけいない。
正直、超高齢化した日本社会の現在の政治状況では、予測としては、現実逃避の先送りが続く可能性が高い。
社会の改善に、新型コロナ危機だけでは足りなかった、ということだ。さらなる危機の増幅によってしか、改善の機運は生まれないのかもしれない。
しかし改善より前に、危機によって日本が崩壊していかないという保証はどこにもない。