初めて観た時、「このTVシリーズはいつ制作されたのか」と考えた。19世ごろという返事が戻ってきたならば納得できたが、同シーズンを当方に推薦してくれた知人は「現代だ。私たちの生きている時代」という。イスラエルが制作したTV番組「Shtisel」(2013~2021年、3シーズン、33話)は首都エルサレムのゲウラ(Geula)に住む通称ウルトラ・オーソドックス・ユダヤ人(ユダヤ教超正統派)と呼ばれるユダヤ教徒たちの日々を描き、国内外で高評価を受けているのだ。
コミュニティから一歩足を踏み出すとそこは大きなビルや繁華街で賑わう世俗・ユダヤ人社会がある。もちろん、超正統派のユダヤ人が住むコミュニティと世俗社会の間には壁は存在しないが、両社会はまったく異なった時代の法で動いているのだ。
米ニューヨークのブルックリン地区にも超正統派ユダヤ人が住むコミュニティがある。ただし、キリスト教系宗教団体のアーミッシュとは違う。彼らは世俗社会から完全に隔離された社会で生きているが、超正統派ユダヤ教コミュニティーは世俗社会の真っ只中にある。そこには学校も銀行も全てある。もちろん、必要ならば世俗社会に足を踏み入れて買物もできる。
その超オーソドックス・ユダヤ人の姿を描いたのが「Shtisel」だ。「シティセル」とはファミリー名だ。ここでは「シティセルの家」と訳す。そこに住む家族模様が淡々と描かれている。
俳優はもちろん世俗ユダヤ人の中から選ばれている。ウルトラ・オーソドック派のユダヤ人には俳優はいないからだ。「シティセルの家」の大黒柱、ラビ役はイスラエルで有名な俳優グリックマン(Dov Glickman)だ。末息子Akiva役や娘Giti役も世俗社会に生きるユダヤ人俳優が演じている。衣装は男性は黒い帽子に黒いスーツ、長い髭の姿で登場する。
興味深い点は、映画はヘブライ語だが、父親が祖母と話す時、子供に聞かれたくない話の場合、イディッシュ語で会話することだ。当方はヘブライ語ができないので、もっぱら字幕に出てくるドイツ語訳を追って内容をフォローしたが、イディッシュ語(東欧のユダヤ人、アシュケナージ系の間で話されている言語)はドイツ語に酷似している。
「シティセルの家」では生活全てが神の法が最優先される。女性は外で働き、日々の糧を稼ぐ一方、男性はトーラー(聖書のモーセ五書)やタルムード(律法)を学ぶことが仕事だ。学校(Cheder)で父親はトーラーを子供たちに教える。末息子Akivaも父親の学校の授業を助けている。学校では数学や物理、英語などを教えない。学科はトーラーだけだ。若い男性と女性が結婚する場合、結婚斡旋団体を通じて個人の家で会わず、ホテルなどの外の場所で会い、デートを重ね、気に入った場合、その旨を親に通知し、両家が入って婚姻をまとめることになっている。
ちなみに、超正統派のユダヤ人家庭に生まれた若い女性(エスティ)が親の言う通りに結婚したが、自由を求めて逃亡しベルリンに移住するストーリーを描いた米独合作TVドラマシリーズ「アンオーソドックス」が昨年3月、Netflixで配信され、ヒットしている。その映画でエスティ役を演じた女優シラ・ハースは「シティセル」では娘Giteの子供役で出演している。
IT企業が栄え、先端科学技術を駆使する現代のイスラエル社会で、トーラーの教えに基づいて生きているユダヤ人が今もいることにやはり驚く。なぜだろうか、と考えざるを得ない。ユダヤ人の説明では、「われわれは神の教えを無視したために、神は救い主を送ることができなかった。そして多くの同胞を失ってしまった。全てはヤハウェへの不信が原因だった」として、「同じ過ちを繰り返してはならない」という動機があるからだという。
600万人以上のユダヤ人がナチス・ドイツ軍の蛮行の犠牲となった後、「なぜ神は多数のユダヤ人が殺害されるのを黙認されたか」「神はどこにいたのか」といったテーマが1960年から80年代にかけ神学界で話題となった。敬虔なユダヤ人はもっと深刻だった。アドルフ・フォン・ハルナックの「神は愛」といった神学ではもはや不十分となったわけだ(「アウシュヴィッツ以降の『神』」2016年7月20日参考)。
ユダヤ民族は“受難の民族”と言われる。その受難は、神を捨て、その教えを放棄した結果の刑罰を意味するのか、それとも選民として世界の救済の供え物としての贖罪を意味するのか。アウシュヴィッツ以降の神学はその答えを見出すために苦悶してきた。ウルトラ・オーソドックスのユダヤ人は前者と考えているわけだ。ユダヤ人の中には、アウシュビッツで殺害されたユダヤ人の中にメシアがいたのではないか、という思いがあって苦しむ人々がいる。メシアがひょっとしたら殺されてしまったのではないかという痛恨だ(「『メシア』を待ち続けるユダヤの人々」2020年1月22日参考)。
欧米世俗社会では、「神は死んだ」という声が響き渡っている。その社会の片隅で、メシアを待ち望み、モーセ時代の神の教え、戒律を守りながら生きているユダヤ人がいるということに軽い衝撃を受ける。「シティセルの家」が海外でも高い評価を受けたのは、一種のカルチャー・ショックを与えたからではないだろうか。
ただし、看過できない点は、超正統派ユダヤ人の家庭に生まれた女性たちがコミュニティから逃避したり、自殺するケースが増えてきた、というニュースが報じられていることだ。超正統派ユダヤ教徒のコミュニティーでは約10%のユダヤ人が様々な理由から出ていったという。「シティセルの家」でも世俗化社会との葛藤、世代間の亀裂などで揺れ動く超正統派ユダヤ人の実態が描かれている。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年8月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。