アヘン戦争後に日本が成功し中韓が失敗した歴史

先日の「コロナ日本の排外主義を尊王攘夷と一緒にするな」では、尊王攘夷の人たちのなかには、後ろ向きな排外主義者もいないわけではなかったが、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、伊藤博文らが世界への向けて開かれた眼を持ち、彼らの主導で日本が世界の一流国となっていった背景を書いた。

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それに対して、清国と李氏朝鮮はなぜ失敗したのか。拙著「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)から、19世紀中盤のイギリスなどの帝国主義的な進出に対して、日本がどう対応したのかの箇所を編集短縮して提供したい。

アヘン戦争を深刻に受け止めなかった清朝

康熙帝のころの北京には、イエズス会の宣教師たちが来て、孔子崇拝や先祖の祭祀を容認して布教していた。ところが、ほかの修道会から異議が出て、教皇庁はイエズス会の布教方法を否定したので(1704年)、康煕帝は、イエズス会以外の宣教師の入国と伝道を禁止し(1706年)、雍正帝の1724年には布教が全面的に禁止された。

貿易は、明朝では原則禁止する「海禁政策」がとられ、清朝でも鄭成功の台湾からの反乱を排除するために継続されたが、日本の鎖国と反対に1684年に解除され、1685年には、上海、寧波、厦門、広州の四ヶ所を開放した。生糸・陶磁器・茶などが輸出され、銀が流入し経済が発展したが、乾隆帝の1757年に広州だけとなり、外国人の活動も厳しく制限された。

イギリスから乾隆帝の80歳の祝いを名目にマカトニーを派遣したのはこのころだ。「三跪九叩頭の礼」をするかで揉めたが、このときは、英国王への儀礼と同じということで許されたが、乾隆帝は清は貿易など必要しないと言い放った。実際、イギリスは中国に売る物がなく、貿易が拡大すると銀の流出がイギリスにとって辛くなってきた。

そこでイギリスはインドで産するアヘンに目を付けた。清は対策が遅れ、1790年に禁令を出したものの効果がなく、1820年代には、銀が流出超過になった。本当に困ったのは、アヘンの害よりこのことなのである。

清朝では、「国産化を進める」「公認して関税収入にする」といった容認論もあったが、禁止に決し、イギリス政府は議会での大議論のすえに開戦を決めてアヘン戦争となり(1840年)、南京条約で賠償金の支払いと香港の割譲、上海などの開港、虎門寨追加条約で治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが決まった。

アヘン戦争 Wikipediaより

ただ、清朝の人々や一般中国人が深刻に受け止なかった。戦争で負けて夷狄に恩恵を与えることは、中国の史上で珍しくなかったのである。むしろ、このニュースを聞いた吉田松陰のような日本人のほうが深刻に受け止めたくらいだ。

経済と統治体制の破綻は深刻で、銀の銅に対する交換比率が急騰し、銅で米代金を受け取り、銀で税を支払う農民は困窮したのである。

そして、エホバの啓示を受けたという洪秀全が、広西省で起こしたのが「太平天国の乱」で(1851年)、「滅満興漢」など雑多な主張を掲げて勢力を伸ばし、1853年には南京を占領して天京と改名した。

しかし、満州族の八旗など正規軍は、周辺民族との戦いを念頭にしたもので、民衆蜂起の鎮圧は想定してなかった。しかも、満州人たちはすっかり尚武の気分を失っていたので、漢民族でも支配層から、太平天国の思想が危険だととして、清朝を助ける動きが出てきた。義勇兵を募集し、「郷勇」といわれるようになった。要するに私兵集団である。

とくに、湖南省の曽国藩が組織したのが湘軍で、北京では曽国藩を両江総督(江蘇省・安徽省、江西省の長官)・欽差大臣として鎮圧に当たらせた。

この内乱のさなかに、清の官憲がイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行ったことでイギリスは、宣教師が殺された紛争を抱えていたフランスを誘い開戦した(1860年)。いったん天津条約が結ばれ、公使の北京駐在、キリスト教布教、河川航行、アヘンの輸入などが認められたが、手違いから戦闘が再開され、咸豊帝(西太后の夫)は離宮がある北東の熱河に避難し、英仏連合軍は、乾隆帝がベルサイユ宮殿を模して建てた円明園を略奪し炎上させた。

ロシアの仲介で結ばれた北京条約では、 天津の開港、イギリスへの九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可が決まり、ロシアも沿海州を譲渡されウラジオストックを建設することになった。清朝でも太平天国を鎮圧するために英仏の助力を借りたいという思惑があった。

これで太平天国の乱は治まったが、清は英仏などによる半植民地化、漢族官僚の力の増大、経済破綻、アヘンの蔓延という四重苦に悩むようになった。高杉晋作が上海にやってきて驚いたのはこのころである。

その後の清国は改革意欲がなかったわけでないが、そのことで満州族の権力独占が損なわれることをおそれ、実行できないまま日清戦争の敗北や辛亥革命を招いた。日本が廃藩置県と四民平等で明治維新に成功したのと明暗を分けた。

大院君の登場と外国船打ち払い

朝鮮では、皇太后が垂簾聴政という院政を行ったり、実家が我が世の春とばかり権力と富を得たり、それも巻き込んで、陰惨な復讐劇の連続だった。両班たちは、どうでもいい儀典上の問題を学者を動員して争い、それが国政を揺るがした。

正祖は、それでも、父親が祖父と争い米櫃に入れられて餓死させられた正祖は、はじめは名君で実事求是と利用厚生をめざして実学を育成しようとし、西洋科学文明を受け入れ始めた清の成果を朝鮮の実情に合うように改良して取り入れる動きもしたが、キリスト教への警戒感で慎重過ぎて成果は出なかった。

両班たちは、南人と西人の派閥に分かれて争い、南人が大量に追放されると、西人が老論派と少論派に分裂して争い、政権が変わると徹底的に前の権力者を追い詰める「換局政治」が行われたが、これが現代の韓国政治に色濃く伝統として残っている。

19世紀のはじめごろ、外戚として栄華を極めた安東金氏を排除するために、憲宗の母である神貞王后は、策略家だが放蕩をして周囲を油断させていた王族の李昰応と組んで、その次男である高宗を、即位させた。李昰応は王の実父を意味する大院君となって、党派と身分を問わず人材を登用し、地方官吏の不正摘発や両班への課税強化で好評を得た。

独裁者になった大院君は、高宗の妃に自分の夫人である閔氏の実家から迎えさせまたが、この閔妃と呼ばれる妃が食わせ者で、こののち、大院君と閔妃の対立が朝鮮の外交が非常識な迷走をする原因になった。

よく朝鮮は大国の思惑に翻弄されたというが、まったく逆で、朝鮮側の有力者のそれぞれが外国勢力を呼び込んで争ったのである。とくに、大院君と閔妃、そしてのちには、高宗自身の勝手気ままな私的利益の追求に大国も振り回されたことが、日清。日露戦争の原因であり、その結果が、日韓併合ということである。

大院君は、ロシアに対抗するために、フランスの助力を得たいと頼んだが拒否されて、フランス人宣教師を処刑した。フランス艦隊は報復攻撃したが、これを撃退し数千人のキリシタンを処刑したので、アメリカの商船を焼き討ちにした事件の報復にアメリカ艦隊が江華島へ来たときも撃退して、江戸幕府よりはよほど骨のあるところを見せた。ところが、調子にのって、日本を甘く見て、大火傷をした。

朝鮮王国のお粗末な外交が日清・日露戦争の原因

日本は清国には、西洋諸国と同じ待遇を与えることを要求し、1871年に、伊達宗城大蔵卿が天津で交渉に臨み、対等の関係に基づく日清修好条規が結ばれた。清国政府でも議論があったが、曾国藩や李鴻章などが、もともと日本は中国を隣邦と呼び、元寇や倭寇をみても、中国に屈することのない国であり、朝鮮などと同じ扱いは無理だと判断したのである。

しかし、問題は、朝鮮や琉球、ベトナムのような清国が自分たちの従属国だと考えている国の扱いだった。清国としては、従来の関係を続けるか、保護国などの扱いにしたかった。しかし、琉球については、日本が琉球政府には、清国との交流差し止めや日本の制度の実施を求め、華僑系官僚の抵抗を抑え込んだうえで、1879年に沖縄県の設置と国王一家の東京居住を命じた(琉球処分)。

朝鮮には、新政権樹立の通告と条約による近代的な国際関係を求める国書を持つ使者を送ったところ、大院君は日本の欧化政策を批判し、中国の皇帝のみが使える「皇」とか「勅」の文字が使われているのが許せないとして、受け取りを拒否した(書契問題)。

江華島事件(Wikipedia掲載の明治太平記より:編集部)

ここで西郷隆盛の征韓論が出るのだが、大久保利通らは欧米諸国の納得を重視し、西郷の下野後に、日本軍艦への朝鮮側から発砲があったのをきっかけにした江華島事件を待って「日朝修好条規(江華島条約)」で、朝鮮に「自主の国 」として清国との特別の関係を否定させ、釜山、仁川、元山の開港、治外法権の承認、輸入品への無関税、日本貨幣の通用などを認めさせた。

こののち、大院君と閔妃が清国と日本をそれぞれ招き入れ、また、途中で組み合わせが変わるなど、国益より自分の権力の保持を優先する愚行を繰り返したので、日清戦争が勃発し、その結果、朝鮮と沖縄についての清国の特別な関係は最終的に否定され、1897年には朝鮮王国は大韓帝国に模様替えした。

しかし、大韓皇帝となった高宗は、ロシアを引き入れて日本に対抗させようとし、それが日露戦争の原因となった。この結果、米英も韓国の独立が世界平和の障害だという日本の懸念を認め、桂・タフト協定によるアメリカの黙認により、韓国は保護国化された。ところが、高宗はこれを反故にする工作して退位させられ、伊藤博文暗殺ののち、1910年に日韓併合となった。