コロナ日本の排外主義を尊王攘夷と一緒にするな

八幡 和郎

アヘン戦争後の日中韓の対応の違い

私は「反日」にはならないが「嫌日」になりそうだ。「このところの日本人は、島国根性とは何かということを、身をもって実践している。しかも日頃リベラルとかいってた人間ほどひどいものだ。」ということを、「バッハ会長が日本人から批判される理由が理解不能」で書いた。

バッハ会長が日本人から批判される理由が理解不能
このところの日本人は、島国根性とは何かということを身をもって実践している。しかも日頃リベラルとかいってた人間ほどひどいものだ。私は反日にはなるはずないが、嫌日になりそうだ。まことに恥ずかしい。 ワシントン・ポストは「東京五輪は完全な失敗に...

さらに、腹が立つのは、この外国人や在外邦人に対する排除主義を、幕末の尊王攘夷運動と似ているという人がいることだ。

もちろん、尊王攘夷の人たちのなかには、後ろ向きな排外主義者もいないわけではなかったが、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、伊藤博文らが世界への向けて開かれた眼を持っていなかったはずがなかろう。

しかし、尊王攘夷といえば、排外主義という誤った教育が浸透しているということでもある。そこで、拙著「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)から、19世紀中盤のイギリスなどの帝国主義的な進出に対して、日本がどう対応したのかの箇所を少し編集短縮して提供したい。

また、続編として中国や韓国はどうだったかも書く。

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ペリー艦隊来航までの時間を無駄にした幕府

イギリスは德川家康の時代に日本にやって来たが、オランダに敗れて、インドに専念し、極東はオランダに譲った。18世紀にはインドでフランスと争い勝利した。ナポレオン戦争でオランダはフランスに併合されたので、イギリスはオランダの植民地を横取りにかかり、1808年に英国のフェートン号がオランダ船を敵国船として追って長崎に現れたが、単発で終わった。

小康状態に気をよくした幕府は、1825年に異国船への「無二念打払令」を出した。その後のしばらくは、アヘン問題などでイギリスの関心は清に向かっていたが、魔の手が日本に伸びるのは時間の問題だった。

このころ日本では、「天保の改革」で知られる水野忠邦が老中筆頭だった。水野は経済には無理解だったが、政治改革と外交には先進的な感覚をもっていた。幕藩体制の基礎は、大名を同じ石高なら無条件で移封できることだった。ところが、德川吉宗や松平定信は、領国の安定を認めるかわりに上納金や工事手伝いを求め、短期的には有益だったが、雄藩連合による連邦国家化が進んでしまった。

これでは、海防のための国軍の創設もできないし、新規の大名取り立てや功労者への加増もする余地がない。そこで、川越・庄内・長岡の三角トレードを試みた。川越藩の養子に将軍家斉の子を迎えさせるために豊かな庄内に移し、海防のために新潟を幕府が欲しかったのが狙いだったが、庄内では大地主の本間家が領内統治を酒井家からまかされてうまくいっていたので、本間家主導でほかの大名まで巻き込んだ反対運動が起きて撤回する羽目になった。

さらに、江戸と大坂周辺の大名領や旗本の知行地を、遠隔地と交換して幕府領とする「上知令」を出した。都市近郊に大名などの飛び地があるので幕府領経営に支障を来していたのである。だが、老中ナンバーツーの古河藩主・土井利位は自藩の都合でサボタージュしたし、大阪周辺には紀州藩の領地が多く、その反対もあってつぶされた。つまり、譜代筆頭、御三家。副総理格の古河藩などが幕政改革を潰したのだ。

外交では、1842年に薪水の補給を認めたのは、水野が危機感を正しく持っていたからだ。もし、彼らが田沼意次が幕政で試み、西南雄藩が独自に実施したように、重商主義国家的な経済政策をとり、日本主導で慎重に開国に舵を切り、中央集権化を進めて、富国強兵に努めたら、幕府がドイツにおけるプロイセンの立場に立てたはずだがそうはならなかった。

ペリー来航時の老中筆頭だった阿部正弘は、同時代の人にも歴史作家にも評判のよい政治家だ。名門出身らしいおおらかさがあり、頭脳も明晰で、決して独走せずに有力大名や大奥の意見をよく聞くのだから当然だ。現代の大企業でサラリーマンになっても、間違いなくエリート・コースまっしぐらだったに違いない。

しかし、平時にはいいが、思い切った改革とか危機対応には最悪のタイプだ。つまり、どうしていいか分からないことは想定外にして、対策をあらかじめとらず、ことが起きてから右往左往する日本的リーダーの典型である。

アヘン戦争の終戦から二年後に、オランダ国王の国書が来て、「アヘン戦争など国際情勢の変化を考えれば開国すべきだ」とした。水野忠邦は前向きに受け止めたが、保守派若手のホープ阿部正弘らが反対し、水野の後任の老中首座となってことなかれ主義を貫いた。フランス艦隊が沖縄に現れて通商を要求したときには、琉球が独自にフランスと貿易関係を持つことを認めてもよいと島津斉彬に約束した。薩摩や琉球が独自の交易に応じたらガス抜きになって、日本を開国しなくてすむと考えたらしいが、日本各地を次々とどこかの植民地にしてしまう可能性が高かった。

さらに、ペリー来航の前年、オランダ商館長ドンケル・クルチウスは、米国がペリー提督を司令官とする艦隊を日本に派遣し、陸戦隊も同行すると具体的に予告したが、阿部はまたもや無責任に、これを聞き流した。

対策を立てようにも知恵が出そうもなかったから、思考を停止したのである。そして、現実にペリーが来たら、一年待ってくれと言い、ペリーは翌春に江戸湾に戻るといい残して姿を消した。

阿部は、大名、旗本から陪臣に至るまで、広く意見を求める前代未聞の大世論調査をしたが、ペリー艦隊が正月16日に江戸湾に現れたので、神奈川で日米和親条約を結び、下田、函館を開港し、ハリスが領事として伊豆の下田に赴任してきた。

幕府に抵抗したら、当時のアメリカ海軍は西海岸に根拠地もなかったので、砲撃で火事はおきただろうが、数百人の兵力では数日のうちに殲滅されただろう。

軍事圧力を受けて交渉する場合に、場合によっては戦うという姿勢なしでは足元を見られるし、そこそこ善戦したら、それが財産になる。のちに、薩摩や長州はイギリスや四国艦隊と戦うことで、一目置かれることになったのである。

孝明天皇に振り回されて幕府は滅んだ

下田に領事として赴任したハリスは、幕府と通商条約の交渉を始めたが、イギリスがやってくる前にアメリカと条約を結んだ方が過酷なおのにならず賢明だと説得したが、それは間違いではなかった。

交渉には外国奉行岩瀬忠震ら旗本たちが当たったが、なにしろ、国際法の知識がないから、ハリスに教えを請いながらの交渉だった。たしかに、岩瀬らは頭脳は明晰で時には鋭いことも言ったが、のちに問題になる治外法権や関税自主権については、質問もしていない。

いずれこういう交渉をするのは分かっていたのだから、国際法の勉強をしようとしなかったこと自体が、奉行としての岩瀬らにとって責任を問われるべきで誉める人の気が知れない。現在のコロナ対策にあたる人たちのようだ。

できあがった条約案について、幕府は朝廷の了承をとって反対派を説得しようとした。日米和親条約のときは、関白が鷹司政通という実力者で、朝廷も事後承諾してくれたのだが、政通が関白から降りて内覧になっていたので、孝明天皇は自説を押し出して拒否した。

井伊直弼が大老に就任し、条約に勅許なしで調印した。将軍継嗣問題では紀州の家茂に決し、反対派の水戸、尾張、越前、土佐などを排除したが、これに怒った水戸藩関係者に桜田門外の変で暗殺された(1860年)。

そののち、1863年に島津久光が上洛し、ついで勅使とともに江戸に下って圧力をかけたので、松平春嶽や一橋慶喜らが政権に参加し、これ以降はすべてにわたって孝明天皇の意向を無視できなくなる。

ここで登場したのが、京都守護職なった会津藩主の松平容保である。これを幕府と天皇のいずれにも忠義だったという人がいるが、どちらを優先するかの哲学があやふやだからとんでもないことになった。

容保の役目は、孝明天皇に開国を承知させることだったはずだ。ところが、孝明天皇に籠絡されて、幕府を説得する方に回った。しかし、佐幕開国と尊皇攘夷で世の中が対立しているときに、佐幕攘夷という孝明天皇の意見は誰も賛成していなかった。ところが、容保が肩入れしたので、幕府は表向きは攘夷だが各大名には実行しないように期待するということになった。

そして、朝廷と幕府の命令通り攘夷を実行した長州を朝廷から追放し征伐するという狂気じみた方針になったから、幕府は各大名からも市民からもそっぽを向かれ、征長戦争は長州の完勝に終わった。

ここでひとつ誤解があるのは、長州の攘夷は開国拒否ではないことだ。吉田松陰はアメリカ渡航を企て、高杉晋作は上海へ視察旅行に行き、伊藤博文は英国留学したのだからそんなことありえない。列強の言われるがままになることに反対しただけである。

長州の人々は室町時代に大内氏が明や朝鮮と交流し、文禄慶長の役では毛利軍が主力として活躍したことのDNAを引き継ぎ、国際感覚は鎖国のあいだも脈々と生き続けていたから非現実的な発想はあり得ないのである。

坂本龍馬らとイギリスの関係を過大評価する輩の不見識

坂本龍馬が「日本を選択したく」といったのは行政改革のスローガンでない。長州に砲撃されて傷んだ外国船を幕府が造船所で修理したことに怒ってのものだ。龍馬はもともと長州に顔が利くのがウリであるし、妻のお龍を下関に棲ませていたから、長州の意に反した行動は取れる立場でなかった。

もちろん龍馬一人の功績でないし、むしろ歯車のひとつに過ぎないが、龍馬は薩摩が倒幕に乗り換えて長州と組み武器を購入することを仲介し、土佐では勤王党の残党として方向転換を助け、越前と組んで徳川慶喜を佐幕派から引き離すことに成功した。

この幕末の動乱の時期、イギリスはパークスが盛んに動き回ったが、薩摩や長州が彼らを全面的に信用していたとか操られていたというのは根拠がない。上海でのイギリスの専横をみたのが高杉晋作の原点であることや、薩英戦争で薩摩が善戦したことを忘れてはならない。

フランスは幕府に肩入れしたが、これはロッシ公使の独断専行で、普仏戦争を前にした当時のフランスに極東でイギリスと対立する動機はなかったので、小栗上野介などがフランスの支援を当てにしていたとしたら馬鹿げていた。アメリカは南北戦争もあって積極的な動きはできなかったので蚊帳の外で、終戦で余った武器を売っていただけだ。