金太郎飴の大卒生なんてもういらない

岡本 裕明

日本人の没個性化は長年指摘されてきました。私が大学の時にもそのテーマは存在したのですから少なくとも4-50年、変わっていないということになります。

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没個性化と聞けばむっとすると思います。しかし、日本を含む東アジアの教育は集団行動の訓練を通じて個性をいったん仕舞い込ませるスタイルを重視します。かつては小規模集団行動である農家用水の村落内の配分から始まり、昨日のテーマで触れた企業のアメーバー型小規模集団に至るまで基本的にグループ内の一人のミスは全員のミス、謝罪するのはミスを犯した本人ではなく、グループの長であります。

例えば企業の年中行事になった不祥事の謝罪において本人が出てくることは1000%ありません。必ず、責任者であり、深々と頭を下げるのです。謝罪の流儀ですね。

日本を含む東アジアは統制を至上とするため、人々の人格や個性についてもなるべく差をつけず、目立たさせないようにします。悪い言い方をすればクラスに規格外の児童がいてもその子をなるべく特別扱いしないわけです。しかし、見方によってはそれは個性や人格に無理やり蓋をしているともいえるのかもしれません。抑圧は必ず、暴発するものです。現代社会において様々な社会事件が起きているその犯人の心理には「むしゃくしゃする」「むらむらする」といういう動物的で我慢ができない状態でトラブルを起こしたりします。

学校教育については相変わらず偏差値による算定で大学教育は昔のように色濃かった時代から没個性化したところが増えたと思います。いわゆるMARCH(明治、青山、立教、中央、法政)の現役生、卒業生なんてどうやっても区別がつけられません。最近では近畿大学、千葉工大が個性的かもしれませんが京都大学や一橋大もある意味、強烈であります。

ただ、そんな中で世の中、これほどユニークな大学はないといわれる超難関は東京芸大で東大なんて足元にも及びません。ただ、東京芸大を出た場合、大成功するか、就職できないかのどちらかといわれるのは個性が強すぎるからともいわれており、日本の規格社会において東京芸大卒業者は受難だともいえるのです。

近年、企業は金太郎飴から個性派へのシフトが進んでいるとされます。私はそこまで企業が変われるとは思いませんが、10年20年かければ変質化するかもしれないと思っています。なぜ、日本の企業が個性派を採用できないかといえば個性派を使いこなすのは偏差値で評価された金太郎飴大学出身の上司であるからです。では北米ではどうなのか、といえば様々な個性の人材が企業にいますが、結局ひとり一人のジョブディスクリプションが明白であり、担当が決まっており、それ以外の人はその業務にタッチしない仕組みです。担当者が全部をひっくるめて窓口となって受けてくれるのです。仕事を発注する方は会社に発注しているというよりその担当やチームと仕事をするという認識が強いと思います。

私が日本で発注しているある建設会社への業務はこの担当制を敷いています。私の担当が若い女性で初め、おやっと思ったのですが、調べてみてなるほど女性社員を顧客とのやり取りに送り込み、技術者はその後ろ側で作業を進めるという分業をしているのです。上手だと思いました。

大学時代が楽しかったというのは過去の産物にすべきです。大学時代にその専門性をベースにどんな深堀をしたのかが就職の最大の決定要因であるべきです。とすれば国立早慶だろうが無名大学だろうが関係なしだろうと思います。今、高専卒業生は大学生よりはるかに高い就職率となってますが、それは実践型として5年間、しっかり学んでいるからで極端な話、入社した翌日から使えるのです。だけど、大卒がものになるまでに数年かかり、その間3割が辞めていくのです。

それでも人事部は有名大学卒業生をかき集め、役員会で今年の採用目標人数を達成したと報告し、どれだけ優秀な、つまりどれだけ名の知れた大学卒が入社したのかを尺度としているのは本質的ではないと思います。

この問題も日本の構造問題の一つではありますが、メスを入れる時期に来ているのではないかと思案しております。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年8月12日の記事より転載させていただきました。