斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がベストセラーとなり、脱成長論に対する関心が高まっている。柿埜真吾氏の『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠 (PHP新書)』は、「我々の生活を資本主義から守る」ことを提唱する斎藤氏への異議申し立てである。柿埜氏は「資本主義によって我々の生活を守る」ことを提唱する。
例えば、「気象関連災害による死者は経済成長とともに大幅に減少してきた」(22頁)と指摘し、経済成長と安全の追求は二律背反でないことを示している。
柿埜氏の著作は、事実としての社会主義を理解するにはいい教材である。しかし、「資本主義は自発的交換によって成り立つ」(172頁)プラスサムの社会であると指摘して、市場経済における強制の欠如を礼賛する姿勢には危うさを感じた。
なぜなら、自発的と強制の線引きは曖昧だからである。二者択一の片方に飢えや社会的制裁が待ち構えている状況では、もう片方を「自発的に選択した」ように見えても、当事者からすれば「選択せざるをえなかった」と言うべきものである。
このような選択なき決断(國分功一郎氏が「中動態」と呼ぶ状態)を「自発的」という類型に無理にはめこむと、「自分で納得して選択したのだから、不都合が生じてもその結果は自分で引き受けるべき」という主張を可能にして、過剰な負荷を弱者に負わせてしまう(この問題は與那覇潤氏も『平成史』第14章で論じている)。
もちろん、柿埜氏も貧困問題に対する考察を怠っていない。ミルトン・フリードマンが提唱した負の所得税や教育バウチャーなどについて言及し、資本主義経済も貧困に対して無策でないことを示している。
しかし、負の所得税のような根治療法(国家による問題解決)は実現するとしてもかなりの時間を要する。根治療法が実装されるまで生活困窮者は受忍せよと主張するなら、それはシニカルである以上に無責任である。柿埜氏はこのような粗雑な議論を展開していないが、自由な秩序を唱道するなら、根治療法以外に対症療法(企業による問題解決)にも目を向ける必要があるのではないだろうか。
近年注目を浴びている持続可能な開発目標(SDGs)や責任投資原則は対症療法の一例と考えられる。これらは脱領土的なニュータイプのリヴァイアサンたち(多国籍企業)を飼い慣らす新しい社会契約でもある。
斎藤氏は、SDGsを「大衆のアヘン」と嗤って突き放す。斎藤氏と柿埜氏の主張は水と油だが、「アヘン」という対症療法の役割を過小評価している点で両氏は似ていると感じた。
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