開戦の真相に迫る:「戦争という選択」関口高史

田村 和広

第二次世界大戦について学ぶとき、「なぜ日本は無謀にも対米開戦を選択したのか?」とは誰しもが思う謎だろう。この疑問に真正面から取り組み、解としてその歴史観を世に問う堂々の書籍『戦争という選択』(著者関口高史、作品社)が登場した(2021年8月16日)。

作品社|戦争という選択 (sakuhinsha.com)

「対米開戦」は複雑な事象

「なぜ対米開戦を選択したのか?」という問いに対しては、これまで多くの研究者によって分析と解説がなされてきた。もちろん秀逸な研究も多く、中でも社会科学的分析を駆使して提唱される仮説には、確かに納得感の高いものもある。しかしそれらを評価する際には通常、「時期あるいはテーマを限定した考察としては」という前提条件が附帯する。そもそも「開戦の意思決定」とは相互に作用しあう人間社会の出来事であるため、包括的な把握が極めて困難な対象なのである。精緻な抽象化を試みようとしても、変数を増やし時間軸を長くとると、考察量が「指数関数的」に増大して人知を超えてしまうのである。そのため一般人が自分なりの「俯瞰的な開戦経緯」を組み立てるためには、複数の書籍や史料の中から信頼に足る論考や根拠を探し当て、自分の中で総合して行く必要があった。

DKosig/iStok

ところがこれまで発信された多くの論考には、イデオロギーに由来する偏向や営業面に配慮したポジショントークなどが混入し、それらを「解毒」しながら「真実」を取得して行くための作業量は多い。

また、社会科学的分析においては、ある事象と「それを根拠として抽象化した」モデルや仮説との間の飛躍が大きいものも多い。しかもその飛躍の真偽を判定する史料等の材料にあたることが現実的に不可能な場合も多く、特に研究者でもない限り、クリティカルに比較検証することは困難である。

ただし社会科学的分析において、ある程度の飛躍は已むを得ない。なぜなら、自然科学と異なり一般的に再現実験はほぼ不可能であり、サンプル数も極めて少ないからである。そもそも社会現象は人間の意思によって現象自体が変化(予言の自己成就等)してしまう相互作用を持った複雑な事象であり、モデル化に「近似」は必須である。それらの意味で、社会現象を対象とした分析は、整式の「方程式」ではなく「偏微分方程式」と形容した方が実相に近いだろう。

真実に迫る独特のアプローチ

同書のなかで筆者関口氏は、「対米開戦」という不思議な日本の意思決定経緯を広い視点から論理的に分析し卓論を展開して行く。その分析の際に採ったアプローチは独特である。あえて「主戦論者たち」の主張と思考に焦点を当てているのである。筆者は一貫してその視点から、戦略環境の「認識」・「醸成」・「抑止」という複数の「変数」を、時間という媒介変数でつないで解を析出して行く。そして、各論の解を前提に、現代の安全保障学と現代戦略理論を適用して丁寧な演繹を積み上げる手法で「なぜ無謀な戦争を選択したのか?」という謎を解明して行くのである。

FairでMECEな分析

従来の開戦論では開戦の原因帰属にあたり、(一部権力者といった)人物の優劣や性質に過度に責を負わせているものや、日本を繞る国際環境や国力の相対格差への考察が抜けているものも少なくなかった。それらは「基本的帰属錯誤」である。特に同時代を直接体験した元参謀や元指揮官または為政者らが遺した多くの史料は貴重である一方、時として強烈な怨念や憎悪が混入しており、少なくとも「自己弁護」の色合いを帯びていることに注意が必要だった。読者から見れば、確かに劇的なストーリーは感情移入しやすく、それは歴史探訪の醍醐味の一つでもあるのだが、同書は寧ろそれらをなるべく排除している。同書が分析対象とした「主戦論者たち」の言動についても、当事者たちの「感情や責任回避に由来する偏り」が入っているのが当然なのだが、それに囚われずに本質を抽出しているところも同書の特色であり、誠にフェアである。

同書ではまた、日本国内のみならず国外(主に米国側)において戦争を志向する機運が醸成されて行く推移を飛躍なく説明している。一冊の書籍の中で、国内の主戦論者たちに関する内部分析にとどまらず、環境という外部要因に関する分析も合わせて理解できるのは大変ありがたい。

ところで日本の蹉跌を分析する論考のうち日本人の手に成るものには、「いかに日本が愚かであったか」を後知恵で針小棒大に論難するものが多い印象がある。その際日本軍や政治家は紋切型に「愚者」として描かれるのだが、「物量の差ではない」ということを強調するあまり、筆が走りすぎていることが多かった。言い換えると藁人形化が行き過ぎて、余りにアンフェアな物言いには閉口することが多かったが、同書にそれは一切ない。

同書では、当事者たちの錯誤が積み重なって行く過程が淡々と描き出され、随所で手堅い分析と飛躍のない論考によって開戦に至る基因の一つ一つが示されて行く。そこで示される原因それぞれは唯の必要原因に過ぎず、単体で開戦に至るわけではない。しかし、それら必要原因は、一つとして欠かせない要因であり、すべてが累積することで十分条件を構成する重要なピースである。それら必要原因を網羅的に(漏れなく)取り扱っている点も見逃せない。

そして各分析結果は、やがて「開戦已むなし」という悲劇的な結末で回収される伏線となっている。先が見通せない日本の指導者たちを追いつめる包囲網が、徐々に狭まって行く様は、結末を知っているにも関わらず息苦しさを追体験させる。

また同書には、「人物非難」や「人格攻撃」が全くないことも美点である。一般論として太平洋戦争(大東亜戦争)にまつわる従来の書籍や論考では、特定の人物への(批判を通り越した)非難の文言も散見され、それらは論考としては読みにくいものであった。しかし同書にそれは一切なく、人物の批判というよりはその職責における思考や行動に対する考察と批判が展開されており、読みやすく、タブーなく検証することができる。

結果として、フェアでMECEな(漏れなくダブりのない)分析は同書の価値を担保している。

同書の提唱する教訓

同書では、第一部として日米開戦の間接的経緯を、第二部として直接的経緯についての考察を展開したうえで、第三部において結論としての教訓を析出している。そこでは膨大な分析から教訓を抽出し、理解しやすい文章で読者に提示している。尤も教訓の具体的な内容は「ネタばらし」になるのでここに記述はしないが、その教訓を「恒等式」として現代の日本の動向を入力・検証するとき、出力される解には暗澹とした思いを抱かざるを得ない。

なお蛇足ながら、当時日本の統治や統帥を壟断していた「天保銭組(軍刀組または陸大閥)」は、(自己認識と環境認識に関する確証バイアスによる)壮大な錯誤を犯し続けたが、現代においては隣国がそれを起こしている可能性がある。そのことを想起するとき、筆者の説く教訓は、一層深く心に響く。(この蛇足は、同書著者とは無関係であり評者の主観に過ぎない。)

排水量で当時世界最大だった戦艦大和(基準排水量64,000トン)の技術的真価は、「世界最大」という点ではなく、45口径46センチ砲という巨砲を「コンパクトな」艦体に収めたことにあったとも言われる。同書も同様である。あとがきまで含めて本文は309頁という分厚い書籍であるが、これほど的確な論考が、網羅的に過不足なく「わずか300頁余」に格納されていることこそ驚異である。

 むすび

ときに歴史は虹に譬えられる。「それらは共に立脚する視点(国や人)によって様々な姿に見え、構成する事実一つ一つを微視的に掴むだけでは全体はわからない」という類似性を言っているのだろう。その譬えを用いるならば、同書は事実に基づく微細な分析と丁寧な論考を膨大に累積することによって、包括的な「虹」を描くことに成功している。

この『戦争という選択』という書籍は、また別の観点から見ると、「大日本帝国の誕生期から第二次世界大戦に至る世界史を、関口高史氏という卓越した研究者の目を通して捉えた一つの世界観」、つまり「関口史観」そのものである。短期的には現代の国際情勢における日本の舵取りに貢献すると思われ、将来的には千年単位の「時の試練」にも耐え得る、事実の再現度が極めて高い史書となって行くだろう。

参考文献:
『誰が一木支隊を全滅させたのか』
誰が一木支隊を全滅させたのか – 株式会社芙蓉書房出版 (fuyoshobo.co.jp)

『歴史がわかるブックガイド』
文春新書『昭和史がわかるブックガイド』文春新書編 | 新書 – 文藝春秋BOOKS (bunshun.jp)