自国に協力してくれたアフガン人救出に必死のスペイン

スペイン軍で通訳として働いていたアマル氏
エル・パイス紙より

スペインが救出を予定していたアフガン人とその家族は当初800人

アフガニスタンからスペインが受入予定をしていたアフガン人は当初800人と見られていた。しかし、8月25日の時点で1000人を幾分か超すアフガン人とその家族がスペインに到着している。

2002年から駐屯していたスペイン軍やスペイン開発協力庁事務所そしてスペイン大使館に勤務していた現地人の通訳や翻訳家、運転手、料理人、清掃人などとその家族を含めた人数が同大使館の方で当初掌握していたのがおよそ800人だとされていた。

現在、スペイン人で首都カブールに留まっているのはガブリエル・フェラン大使とパウラ・サンチェス公使の二人だ。それに17名の警察特殊作戦部隊(GEO)と警察介入部隊(UIP)がスペインに連れて行く現地人とその家族の救出を担当している。さらに24日からスペイン陸軍から俗にグリーンベレーと呼ばれている部隊から110名が救出に派遣された。そしてその背後からスペインの国家情報本部(CNI)が協力している。

しかし、現地人の救出は非常に困難を極めている。空港に入るすべてのメイン通路はタリバンがコントロールしており、外国のパスポートを所持していない者は通過を許可しないようにしているというのだ。しかも旅行客が利用するターミナルは封鎖されており、空港に入るのに唯一利用できるのは隣接の軍事基地に繋がる入口だけである。そこは国外に出ようとしている現地人が溢れており通行できないようになっている。(「エル・パイス」8月20日付から引用)。

ハサンさん(仮名)と同僚の場合は翻訳家として協力していたが、8月16日にカブールに到着し、身を匿ったあと18日に待ち合わせた空港入口のひとつで午前8時から待っていたが、誰も空港内から出迎えに来る者がいなかったそうだ。何度もコンタクトしていた番号に電話をしたが回答がなかった。最終的に空港内に入ることができたのは夜の8時だったそうだ。

また2010年から2013年までスペイン軍の通訳として働いたジャイッド(仮名)さんの場合は、空港の近くのアパートメントを当初出る気がしなかったそうだ。彼と夫人と2人の男子と2人の女子の生命に危険が及ぶのを避けたいためだった。「通訳全員にメールで呼び出しがあることになっているが、まだそれがない」と語り、「タリバンは時間の許す限り家を訪ねて協力者を探している。我々が隠れているところにも二日前に訪ねて来た。白髭のそこの持ち主が応対したが、私は恐れから身を隠し、そのあと住処を変えた」と述べた。(同上紙から引用)。

アルマルさん(仮名)の場合は、2007年から2013年までスペイン軍通訳として働いた。バギス県にある家から明け方に家族を連れて友人の車でヘラート市まで移動。これまで3回脅迫の電話があったそうだ。脅迫電話があるたびに電話番号を変えていたという。通訳仲間への脅迫電話の内容は共通していて「お前たちは外国部隊スペイン軍に協力した裏切り者だ。彼らの目となって通訳した」と。(8月14日付「エル・パイス」から引用)。

F.Aさんの場合も翻訳家としてスペイン軍に勤務した。妻と5人の子持ち(15、13、10,8,4歳)。彼は大学で法学部を修め、パシュート語に加えダリー語も話す。

スペイン軍が駐留していたカラ・イ・ナウ市に在住していた。800キロの距離を23時間をかけて走行してヘラート市に到着。到着するまでに途中タリバンによるコントロールが30回から50回あって色々と質問されたが、勤務していた会社が倒産してカブールにある家に戻る途中だと答えたそうだ。彼の子供のひとりが「パパ、私たちに何をしようとしているの?」と尋ねたそうだ。運よくカブールに到着。空港まで500メートルの距離にあるマンションに滞留していた。(8月17日付「ABC」から引用)。

スペインのエリート部隊ラ・レヒオン(La Legión)が駐留していた2012年に、ウズベギスタン人で英語、スペイン語、パシュート語に加えて地方語も出来るボーハンさんはスペイン軍から非常に信頼され、軍人のひとりであるかのような待遇を受けて、銃の打ち方もスペイン軍から教わった。彼も今回のスペインへの受け入れリストに加えられていた人物だ。(8月15日付「ラ・ラソン」から引用)。

スペインに協力したアフガン人の中にはパスポートを所持していない者が多くいた。また、それを所持していても着の身着のまま家を出て退避したのでそれを持ち出す時間がなかった者もいた。新たにパスポートを申請しようとしても通常でも6か月はかかるという。しかも、瓦解したアフガン政府ではもう何もできない。そのような中で大使館の方で身元を確認して行く作業も容易ではなかった。

スペインが最初にアフガニスタンに駐屯したのは2002年

スペインがアフガニスタンに350名からなる陣容の軍隊を派遣したのは2002年のことであった。米国のブッシュ(JR)大統領(当時)がイラクに侵攻した時にスペインもそれに積極的に加わることを決めた当時のアズナール首相がアフガニスタンにもスペイン軍を派遣することも決めた。スペイン軍が駐屯したのはバギス県のカラ・イ・ナウという開発の非常に遅れた町であった。

ところが、2004年にスペインは政権が交代してサパテロ首相になると、彼は選挙で公約した通りイラクからのスペイン軍を撤退させた。それに憤慨したブッシュ大統領は彼の任期終了前に最後のヨーロッパへの外遊をした際にスペインへの訪問は無視した。その一方で、米国はスペイン政府に圧力をかけてアフガニスタンでの協力を迫るようになっていた。

イラクから撤退したことの対米国への名誉挽回の為にサパテロ首相は武力ではなく人道的な支援という形でスペイン軍が駐屯していた地域の開発を積極的に実行した。

それが功を奏して2005年から2013年の間に彼らが駐屯していた地域には160キロの道路が建設され、水道網も整備して家庭まで水が届くようになった。また田舎には35か所の井戸を掘った。更に、106床のベッドを備えた病院を再建し、そこでは延べ6万人の治療を施すことができた。また過疎地域には5か所の診療所を建設。同様に出産後の母子医療センターを設けた。それは妊婦の母親が出産後に出血して死亡するケースが多く、また赤ん坊が栄養失調になることがよくあるからであった。更に、助産婦を育てる養成所も開設。6つの小学校と3つの中学校を建設。特殊技能の学校も設置。そして380人の教師の指導センターも設けた。そこでは60名の女性教師も誕生した。これらの開発にスペイン政府が投じた資金は5億2500万ユーロ(630億円)。2013年にスペイン軍がそこから撤退したが、これらのプロジェクトの継続はアフガニスタンの該当する当局があたることになった。(「エル・パイス」8月14日付から引用)。

紛争で家を失った家族
エル・パイス紙より

駐屯期間中のスペイン軍死者は102名

スペイン軍が駐屯している間にスペイン政府が派遣した軍人の数は延べ2万7000名、内102名が死亡している。それとは別に、2003年5月には駐留の任務を終えたスペインの軍人62名がアフガニスタンから戻る途中トルコの上空で濃霧が影響して山にぶつかり全員死亡するという事件もあった。この時、スペインの国防省がチャーターした機材は見るからに古い飛行機だというのが死亡した軍人が送ったメッセージから判明している。しかも、遺体の回収作業は国葬に間に合わす為のデタラメで、一つの棺に異なった人体の焦げた肉体が納められていたということも判明している。あの時の国防相は今もこの惨事に対して如何なる謝罪もしていない。しかも、驚かされるのはこの国防相は議員になる前は軍人弁護士だったということ。同じ軍人であったにも拘わらず、しかも危険な勤務を終えた軍人仲間を労わる気持ちもなく安いチャーター機を手配した失態を国防省のトップとして謝罪するのは当然のはずだが傲慢な彼は今までそれを実行していない。

スペイン大使は全員救出されるまで残留している

現在カブールの空港に残留しているのは大使館のスタッフはガブリエル・フェラン大使とパウラ・サンチェス公使の二人だけだ。同大使は既に在アフガニスタンの大使としての任務は外務省からの辞令で既に終えている。それでも、予定されているアフガン人の協力者が全員救出されてスペインに送られるまで、可能な限り最後まで残る意志を固めている。

この姿勢に外交官連盟を始め色々な方面から賞賛が集まっている。