河野家3代(一郎・洋平・太郎)の栄光と黒歴史

河野太郎氏の総裁選挙出馬でで、あらためて近代日本の政治史でも有数の名門である河野家が話題になっている。私は「政界名門一族の査定表」(宝島社)という本で、この一族を取り上げているが、2017年に河野太郎氏が外相に就任したときに、河野家についての記述の要旨を紹介した。

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今回はそれに少し加筆して新版として紹介する。

私がまったく変だと思うのは、世襲政治家がその遺産を名声をフルに活用するのに、負の遺産は別人の問題として問われないことだ。

海外なら、それは徹底的に叩かれる。別人格だというなら、祖父や父のしたことを強く批判したり干渉させないように距離を取る具体的な方法を示したりさせられる。

そのなかで、安倍晋三前首相は例外的に祖父のしたことを材料に攻撃されたが、たとえば、田中真紀子は角栄の悪行をほとんど批判の対象とされなかった。

よくあることだが、いわゆるリベラル・マスコミの二重基準だ。

河野一族についてえいえば、かなり売国的な行動を過去にとっているし、また、河野一族の家業は、政商として利益をフルに生かしながら築き上げたものなのである。そのあたりを十分に明らかにしてから、総理総裁を狙うべきものだと私は思う。

慰安婦問題での河野談話でその名を残しそうなのが、宮沢内閣の官房長官としてこの談話を出した河野洋平氏だ。親中姿勢から、「江(沢民)の傭兵」と揶揄されたこともあった。当時の判断としては、一種の「損切り」ということで、韓国の要求は怪しげな所もあるが、このあたりで手を打って話をおしまいにできればそれもよしということだったと思う。しかし、実際には、韓国がますます増長して要求をエスカレートしただけなので、大失敗だった。

また、村山談話のときの自民党総裁だったが、これも、まったく同じではないが、河野洋平氏の融和路線が良い結果をもたらしたとは思えない。

その父親の河野一郎は、日ソ国交回復の立役者だ。これも賛否両論あるところだが、病気だった鳩山一郎首相にかわって交渉の主導権をとった河野農相が、漁業協定を実現するために領土問題で二島返還だけを、それも、平和条約締結時にという馬鹿げた妥協を、フルシチョフを相手にしてしまった。

有名な岸・大野・河野密約事件は、1959年に帝国ホテルで岸信介、大野伴睦、河野、佐藤栄作の四人が萩原吉太郎(北炭)、児玉誉士夫(右翼の大物)、永田雅一(大映)らの立会で「次期首相は大野、その次は河野」という約束をした事件だ。

ここに至るまでも河野や大野は右翼とのつながりが強かったわけだが、その集大成というべきはこの事件だった。しかし、岸はこの約束を反故にして池田勇人を後継者にした。反米的な姿勢が嫌われたといえばそうだし、戦争の闇から生まれた裏社会と表舞台とが距離を取り始めた事件でもあった。

ただし、国土建設についての河野一郎の識見はたいしたものだった。建設相として東京五輪のための東京改造をやりとげ、さらには、浜名湖周辺への首都移転、京都国際会館を中心にして京都をコンベンション・シティーとして育てること、筑波学園都市の建設、そして、明石・鳴門ルート一本に絞っての本四架橋早期実現など国土全体を果敢にデザインした。

このあたり、我が県に新幹線を、といった個別地域の陣笠的発想から出発した田中角栄とは格の違う存在だったと言える。

その河野一郎は池田内閣末期にも、池田三選に反対して総裁選挙に出た佐藤栄作に対抗して池田を推して後継指名を願いました。しかし、佐藤が総裁選挙に善戦したうえに、予想より早く池田が病気で辞任したために、池田もすんなり佐藤に禅譲した。

河野はなおも野心を燃やしたが、自身が1965年に急逝して夢はたたれた。また、それに先立ち、右翼の野村秋介が河野の自宅に放火して全焼させた事件があったが、このとき、吉田茂が大喜びしたことはよく知られている。良くも悪くも吉田の官僚主導政治、対米協調主義の対極にいた政治家だった。

その河野一郎の父であった治平は、小田原近郊の素封家で、神奈川県会議長もつとめました。治平は朝日新聞の農政記者から政治家となった。弟に参議院議長を務めた河野謙三がおり、また、妻の従兄弟の子にのちに河野洋平のあとをついで新自由クラブの二代目党首になった田川誠一がいる。

一郎が死んだとき、洋平氏はまだ28歳だった。早稲田大学卒業後、丸紅飯田(現丸紅)で働きアメリカにも留学している。同時期に、田中真紀子も留学しており交流があったとも言われる。結婚したのは丸紅と伊藤忠の創業家当主だった伊藤恭介の娘で、二人の間に生まれた長男が、現在は衆議院議員の太郎氏だ(余談ながら、伊藤恭介さんには若い頃仕事でたいへんお世話になったことがありますが、とてもお洒落な紳士でした)。したがって、河野太郎氏は近江商人の伊藤忠兵衛の曾孫になる。

洋平氏は父のようなブラックなイメージもなく、物腰もソフトだったことから早くから自民党若手のホープと言われた。ただ、新自由クラブを拙速に立ち上げすぎた。野党分裂に繋がる要素がなかったのが、後の、日本新党などの時代と違うところだ。

イメージとしてはリベラルではあったが、やはり反米色が目立ち、そのあたりが宮沢喜一などと違うところだ。洋平氏は宮沢政権を支えきれず野党となった自民党にあって総裁となり、村山内閣の外相にも就任したが、新自由クラブ以来の経緯もあり、本格保守政権を望む声に押されて橋本龍太郎に総裁を譲ることになった。

そののち、衆議院議長となって史上最長の任期をつとめた。また、自民党総裁時代に、小選挙区制が導入され、旧神奈川3区が分割されたが、洋平は河野家の出身地である小田原を中心とした17区から立候補する事にして、洋平の長男である太郎は、自宅のある平塚を含む15区から出て、33歳で当選した。

父の洋平氏が2009年の総選挙で引退したとき、太郎は46歳になっていましたが、この選挙制度の隙間を利用することで、在任期間で13年、当選回数で4回のキャリアを親子ダブル立候補で稼いだことになる。 河野太郎防衛相は「言うべきことを言う政治家」として人気があり、父親の河野洋平元外相の外交での軟弱ぶりとは好対照だ。ただ、外交の世界では相手をねじ伏せるような言動はリスクが高い。

また、信賞必罰というと聞こえがいいが、十分に吟味しない人事への拘泥が指摘される。一閣僚なら官邸が最後はブレーキをかけるからいいが、「一国のトップとして、大丈夫か」という心配を払拭する必要があると思う。