信条に反するから同性愛カップルのケーキは作らない? --- 不破 茂

やや旧聞に属するが、本年6月、LGBT法案の国会提出が断念された。与野党の合意にもとづき、性的指向、性自認に関する「理解増進」を図る法律案である。自治体レベルでは、明確な差別禁止規定を有する条例を持つところもあるが、この法案には差別禁止規定が存在しなかった。繰り返すが、単に「理解増進」のための法案である。この法案に対しては、殊に自民党内保守系議員の反発が大きく、LGBTの人々は「生物学的な種の保存に反する」という発言が報道され、激しい非難を招いていた。

なぜ、保守系議員がこれほどまでに反対したかというと、当初存在しなかったLGBT差別が許されないという法案の趣旨説明を前文に挿入したことが原因であった。法案が差別禁止の趣旨を含むとして猛反発した。

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8月5日付けの、福井県立大学・島田洋一教授の「LGBT濫訴の危惧、米の例から」という産経新聞コラムによれば、差別や偏見は許されない、しかし、その旗印の下、「やみくもに伝統破壊や利権獲得を目指す勢力があり」、そういう左翼「活動家」や「利益集団」により、まじめに暮らす常識人の生活が脅かされる乱訴提起や逆差別が引き起こされるとして、差別禁止の趣旨を含む法はあってはならないとする。

このコラムで、乱訴の例として引用されているのが、2018年のアメリカの連邦最高裁判所の事件である(西山隆行教授による事件の簡単な紹介)。

ゲイ・カップルの結婚式のためのウェディング・ケーキの作成を拒否することは、コロラド州の差別禁止法に違反するかが争われ、州公民権委員会がケーキの作成拒否が州差別禁止法に違反すると決定した。そこでケーキ屋の方が州裁判所に訴えを提起し、敗訴したので、連邦最高裁に上訴した事件である。

ケーキ屋は、公民権委員会の決定が、ウェディング・ケーキの作成を強いる事により、クリスチャンとしての信仰の自由に反して、同性婚に対する賛成を表明させることになり、憲法上の信仰の自由及び表現の自由に違反するとして、訴えたのである。連邦最高裁判決は州公民権委員会の決定過程が連邦憲法に違反するとした。

上述の島田教授のコラムによると、この事例のケーキ屋がまじめに暮らす常識人であり、その生活が脅かされたと言うのであり、乱訴の例とされる。

法律上の論点は幾つかあるが、ここでは難しいアメリカ憲法の議論は避け、日米の法文化の比較について論じたい。

まず、アメリカはキリスト教の影響が非常に強い国である。良く知られているように、カトリックの教義が同性愛を禁じ、プロテスタントでも宗派によっては、その立場が厳格に維持されている。そのアメリカにおいて、今日でもなお差別的な行為が行われ、差別意識が表明されることがあるとしても、同性愛に対する好意的な見方が一般的であり、多くの州において、同性婚ないし登録パートナーシップ制度が法定されている。

そして、性的指向及び性自認に基づく差別禁止は米国憲法に解釈上組み込まれている。もっとも、憲法という法規範は、互いに反対の方向を向くかもしれない多様の権利ないし利益の指標が同時に規定され、上の例では、平等原則と、信仰の自由ないし表現の自由の対立と調整の問題となる。この辺り、後にも述べるが、日本国憲法でも同様である。

次に、アメリカは訴訟大国である。この事が日米で大きく異なる。アメリカはそもそも移民によって形成された国である。人種、民族は元より、宗教的、文化的にも極めて多様な社会である。価値観も異なり、法的な論点でさえ、激しい対立を招き、ときとして暴動やテロ行為にまで発展する。分断された社会であり、人々の連帯と国家としての統合が常に確認されなければ、国としての程をなさない。その象徴として、よく言及されるのが、国旗、国歌であり、あるいは大統領であり、そして合衆国憲法なのである。そこに住む人の文化的背景が大きく異なり、言語が同じであるとしても、考えていること、腹の中が全く異なる事が普通である。

そこで唯一と言って良いほどの、共通のコミュニケーション手段が法なのである。争い事はまず法によって解決する。紛争が法廷に持ち込まれ、裁判官による法の下での解決に委ねる。訴訟が日常であり、そんなに重大な決意を要する手段ではない。

日本はどうであろう。極めて同質性の強い国民性から、コミュニケーションとしても、はっきりと言葉にする以前に、腹芸や忖度の方法により、集団の空気を読むことができないと仲間はずれにされる。また、周囲に併せることを極端に好み、違うことを嫌う。一般に、人が個人として一生の内に裁判の当事者となる事が、離婚は別にすると、ほとんど無い。真にやむを得ない最後の手段なのである。

イギリス人の訴訟観を調査した研究によると、やはり訴訟は最後の手段であり、この辺り、アメリカとイギリスが異なるのであるが、日本人の訴訟観はこれに比しても特異である。

この事を示す例を挙げると、まず、地方の弁護士事務所は、裏通りにあり、目立つ看板なども無く、何処にあるか分かり難い。表通りにデカデカと看板を掲げている弁護士は流行らないと言われている。何故かというと、地方に住む人は、弁護士の所に行ったというと人聞きが悪いので、人目に付かないようにして弁護士事務所を訪れるからである。ひょっとすると大都会の住人は異なるのかもしれないが、大方、変わらないのではないか。

また、愛媛県のアスベスト訴訟は全国に先駆けてなされたのだが、四国電力を訴えた未亡人は、親戚から村八分にされ、金の亡者のように言われ、心労から和解を余儀なくされた。

最後に、ロースクールを制度化した司法制度改革である。日本社会の一層の法化を目指し、法曹資格を持つ者の数を増やそうとした。弁護士が増えることで、社会の中に埋もれた法律問題を掘り起こすことができるだろうと予測したのである。ところが、司法試験合格者を増やしても、弁護士需要がそれ程なく、弁護士事務所に就職できない弁護士を多数生じてしまったので、弁護士会の強い要求もあり、合格者数を絞り、結果的に、多くのロースクールが潰れた。

日本社会の一層の法化が望ましいという事は、司法制度改革の目的であることから分かるように、日本の政府の方針であり、法学者および法曹の共通認識である。

法化とは、社会にある紛争の、うやむやにされるものを、法の前に引きずりだし、憲法を頂点とする法体系の下で解決を行い、その紛争解決を類型化して、やがて目に見えるルールにする。明確な要件効果に規定される法の下に、万人に対して同じ紛争は同じ解決がなされることで、紛争解決の予測可能性が高まる。かくて訴訟以前に法の下の合理的解決に至ることを可能とするに至る。法化とは、法的解決の透明性を高めることを意味する。法は社会統制の手段である。

そこで、最初に戻り、わが国におけるLGBT法案の問題である。そもそも差別禁止条項が無いとしても、現在でも日本国憲法の平等原則に基づき、ケーキ屋の例のような場合に、不法行為に基づく損害賠償を請求する訴訟を提起することは可能なのである。

信仰に基づくのではなく、信条として、同性愛は人類の種の保存本能に反するからあってはならないとして、ケーキ作成を拒否したとするとどうか。もちろん、その結果は不明である。裁判所が判断することになる。ここで言いたいのは、むしろ、差別禁止条項の下で、裁判例が蓄積されることで、LGBT差別として許されない行為の範囲、反対に言えば、差別に当たらないとして許容される自由の範囲が明確にされる。

日本の場合、法務省の人権擁護機関に救済を求めて、人権侵犯があるとされても強制力を持った措置は取り得ない。当事者間の任意の解決が期待されている。この点も、アメリカの公民権委員会とは大きく異なる。日本において訴訟提起は大変勇気のいる事であり、そうしなければならないほどの切実な場合にのみ、訴訟提起がなされるだろう。決して、乱訴という事態は生じない。

不破 茂
愛媛大学法文学部准教授。専攻は、国際取引法及び国際経済法。貿易を行う企業間の法律問題およびWTOやEPAなど。最近は経済制裁と経済安保の法に関心がある。
寡黙な人のブログ-丁酉夜話
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