ノアやハンナがドイツの街を歩く

人類の始祖アダムとエバの最初の仕事は対象に名前をつけることだった。「この花をチューリップとしょう」「これは鳩と呼ぶよ」といった具合だ。名前を付けることで人はその対象に情が注がれるから、ここに関係が生まれてくる。

ハンブルク市内風景(ドイツ観光局公式サイトから)

対象に呼称がない世界を考えてほしい。「Aはあちらに行って」「Bよ、この箱を運んでくれたまえ」といった世界では両者間に関係が成立しにくくなる。だから、Bはダビデ、Aはサラと呼ぶことにしようということになるわけだ。匿名の社会では正常な人間関係が築きにくくなり、相手への信頼が生まれてこないのは当然だろう。

ドイツ語協会は毎年、ドイツでどのファーストネームが最も多いかを調査してきたが、2018年、男の子の名前の中で最も人気があったのは「ベン」だった。ドイツの両親は自分の子供にその他、ノア、ヤコブ、ラファエル、ミリアム、ハンナ、サラという名前を好んでつけるという。ヘブライ語聖書(旧約聖書)を読まれた読者ならば直ぐに彼らの名前が聖書の登場人物のものであることに気が付くだろう。その通りだ。ドイツで近年、ヘブライ語聖書から取った名前が常にトップ10には入るという。男の子の場合、トップ10のうち4つ、女の子の場合、5つはヘブライ語に由来した名前というのだ。

ドイツ放送のユダヤ世界の欄でクリスチャン・レーター記者は2019年3月、「ユダヤ系名前のトレンド」という記事を書いている。同記者は、「ナチス・ドイツ政権下でユダヤ人は迫害され,殺害されてきたが、その国で戦後、ユダヤ系名前を自分の子供につけるドイツ人両親が増えている」というのだ。

ドイツ人の両親がヘブライ語聖書の登場人物の名前をわざわざ選んで付けるのは確かに奇妙な現象だ。同記者によると、ドイツでは戦後、ヘブライ語名の名前をもった子供が次第に増えてきたが、その傾向は1970年以後から顕著になってきたという。

一方、ユダヤ人の家庭ならば自分の子供にヘブライ語の名前を付けるのは当然と思われるが、そうではない時代があった。ナチス政権は、ユダヤ人両親に対して、「子供には典型的なヘブライ語の名前、例えば、女の子にはサラ(アブラハムの妻の名前)を付けるように」と強要したことがあった。名前でユダヤ人か非ユダヤ人かを直ぐに識別できるからだ。

だから、ドイツに住むユダヤ人の家族は生れてくる子供には可能な限りヘブライ語の名前を付けるのを避ける傾向があった。子供がユダヤ人家庭の子だと分かるとさまざまな危険や不祥事が生じるからだ。そのため、ユダヤ人の家庭ではノア、ヤコブといった典型的なユダヤ人の名前を避けて、逆に典型的なドイツ語系の名前、マックスやジークフレットを好んで付けた。同じことが、ロシア系ユダヤ人の社会でもみられたという。ソ連共産党政権下ではユダヤ人は2等国民のような立場だったので、親は子供のファーストネームにユダヤ人だと分かる名前を避けた。

反ユダヤ主義傾向が強い国や社会からきたユダヤ人には同じ体験をしてきた人が少なくない。反ユダヤ主義傾向が見られる欧州ではユダヤ人は身辺の安全のために男性はキッパー(帽子)を付けないで外出するという人が増えてきている。ユダヤ民族のアイデンティティを隠して生きて行かなければならないから、自分の子供も将来、いろいろな迫害を受けないように生まれた時からヘブライ語系の名前を避けるわけだ。

興味深い点は、レーター記者はユダヤ系の名前を付けたドイツ人両親に取材して、その動機を聞いているが、自分の子供のファーストネームがユダヤ系の名前だと知らなかった両親が結構多かったという。それではなぜマックスではなく、ノアという名前を選ぶのかというと、「その言葉の響きがいいからだ」というのだ。分かりやすく言えば、格好いいからだ。

社会学者の中には「ナチス・ドイツ時代に迫害してきたユダヤ民族への償いといった思いが潜在的に働いているからではないか」とみる人もいるが、名前の起源や意味よりもヘブライ語の名前の響きが耳に快い、という理由から選ばれていると受け取るほうが説得力がある。人間は言語を通じてコミュニケーションをするが、言葉がもつ響き(独語Klang)が人間の脳内言語中枢に大きな影響を与え、快く感じたり、不快感を誘発するからだ。

ちょっと脱線するが、日本語に関心のあるドイツ人が「『S』から始まる日本語は耳に快く響く」と言っていたことを思い出す。日本語を学び出したばかりの欧州人が覚えたての「さようなら」を会ったばかりの日本人に言ってしまった、というエピソートを聞く。欧州人の耳には「S」で始まる日本語が快いKlangをもって耳に響くわけだ。言葉には民族や言語の区別なく、一種の言霊があるという。響きはその言霊を意味するのかもしれない。同時に、「言語の統一」が、たとえ長い時間がかかったとしても、可能だという理由ともなってくる。

ドイツで起きている事や現象はしばらく時間が経過すれば、同じドイツ語圏の隣国オーストリアにも見られる、といわれてきた。実際、当方の周囲にはノアがいるし、ラファエル、サラといった名前のオーストリア人がいる。おそらくその名前の起源やヘブライ語の意味について考えてはいないだろう。明らかなことは、言語的に快いKlangを持つヘブライ語系名前が増えてきていることだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年9月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。