コロナがある社会の「希望ある将来」を描く政治を

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この論考を書く直前、車での移動中聞いていたFM放送の雑談で、「日本の街にはゴミが少ない」ということが話題になっていました。

アメリカでは、街中にゴミ箱が設置されているのに、道行く人はポイポイゴミを捨てて歩く、とのこと。

話を聞いて、私が留学していた20年以上前の中国は、もっとすごいことになっていたことを思い出しました。残飯や明らかな家庭ごみが、もうそこら中に捨てられていたことに、最初は恐怖すら覚えたほどです。

ひるがえって、確かに日本の街はどこに行っても清潔です。ラジオでは、「日本人は、自分がゴミを捨てたら誰かが迷惑する」という思いが強いのだろう、という分析をしていました。

先日の読売新聞に、日本は水稲をベースに国家形成されてきた歴史的な背景から、「公共の福祉」を、暗黙の了解のごとく守る精神が培われた、というような趣旨の論考が掲載されていました。過去多数の文化人類学者などの専門家が、何度となくとなえてきた説ですが、私には腑に落ちる考え方です。

マスク着用率の文化差

昨今のニュース映像を見ると、欧米各国のマスクの着用率の低さには驚かされます。少々うらやましくもありますが、未だ人口当たり死亡率が日本の15倍以上あるアメリカで、マスク無しで大人数で騒ぎ、抱き合い、キスをし合うような振る舞いができるということに、文化的な差異が日常生活での常識に与える影響を思わずにはいられません。昨今あまり聞かなくなった、山中教授のとなえる「ファクターX」とは、やはりそういう「文化差」なのではないか、と改めて思いました。

他方、「公共の福祉」の精神が強く出すぎると、社会の同調圧力が強くなりすぎる弊害もあるのだろうと思います。日本人としての、「ちょうどよい加減」を見極めることも、とても大切だ、と考えました。

例えば、今のままの「あらゆるシーンにおける自制」を社会が、政治が求めすぎれば、私たちの生活は立ち行かなくなります。すでに、「ゼロコロナ」を求めすぎるあまり、日本経済は他国に比して大きく、長くコロナのダメージを受けてしまっている。

特に政治家は、ワクチンの効果やすでにわかってきた「効果的な蔓延防止策」と、各種分析結果をもとに、「コロナがある社会における希望ある将来像」を発信し、その将来像にたどり着くための冷静な政策を打っていくべき時期に来ていると考えます。

二回目のワクチン接種の直前に、そんなことを考えました。