陰謀説渦巻く「代替世界」住人のテロ

ドイツのラインラント=プファルツ州ビルケンフェルト郡のイダー=オーバーシュタイン市で先月18日、1人の男性(Mario N)がガソリンスタンドでマスクを着用するように言った20歳の従業員(アルバイト学生)を銃で頭を撃って殺害した事件はドイツ国内に大きな衝撃を与えた。事件を少しクローズアップしてみた。

容疑者Nの犯行現場のガソリンスタンドを警備する警察官(フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング9月22日電子版から)

事件を調査した検察当局は、「容疑者(49)はコロナ禍で苦しみ、その閉塞感から逃れるために何かしなければならないという強迫感に悩まされてきた」と分析している。NはITの専門家であり、右翼過激主義者で陰謀説を信じ、パンデミック前からデジタル空間の代替現実に生きてきた。コロナ規制でマスクを着用するように言われたことで、Nは自制を失い、攻撃的になり、車で自宅に戻って銃を取ってガソリンスタンドに再び戻り、従業員の前でマスクを外し、銃を発砲した、というわけだ。

犯行の動機を合理的に説明するのは難しいが、Nが代替現実に生き、様々な陰謀説の中で現実との垣根を失った結果という分析だ。Nは犯行後も自身の行動を悔いたりしていない。Nは過去、ツイッターで「来るべき戦争を歓迎する。自分の肉体は緊張し、精神は研ぎ澄まされいる」(独週刊誌シュピーゲル9月25日号)と発信していたことが判明している。

代替世界の住民は、「世界は今、破滅の危機にある。独裁者がわれわれを再び奴隷化しようと画策している。コロナ規制やワクチン接種もその手段だ」と受け取っている。Nは隣人に「ワクチン接種で既に30万人が死んだ」と語っていたという。

実際、事件が報道されると、「これは憲法擁護庁(独情報機関)とメディアが仕組んだものであり、大衆を扇動して自由思想家たちを弾圧するために演出したものだ」といったコメントがソーシャル・メディアに流れている。また、代替現実に生きる住民は、世界の危機の背後にはユダヤ人が暗躍し、世界を支配しようとしている、といった反ユダ主義的傾向が見られる。

ちなみに、代替世界の住民といえば、ドイツには、「旧ドイツ帝国公民」運動(Reichsburgerbewegung)と呼ばれる集団がいる。 「旧ドイツ帝国公民」は、ドイツ連邦共和国や現行の「基本法」(「憲法」に相当)を認めない。だから、政治家や国家公務員の権限を認知しない。「旧ドイツ帝国公民」運動といっても、統一された定義はなく、さまざまな政治信条が入り混じっている。ドイツ日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングのコラムニストは「旧ドイツ帝国公民」運動を「ファンタジー帝国」と呼んでいる。彼らにとってドイツは過去にしか存在しないのだ。

シュピーゲル誌によると、ドイツでは約1万6500人の自称「旧ドイツ帝国公民」がいる。その内、約900人は極右過激派だ。約1100人は合法的に武器を所持している。ドイツでは2016年10月、バイエルン州で1人の「旧ドイツ帝国公民」(ヴォルフガング・P)が警察官を射殺した事件が発生している(「『ファンタシー帝国』に住む人々」2018年1月31日参考)。

9月18日の事件は極右過激主義といった政治的動機からというより、コロナ禍で追い詰められて病んでいる精神的症候からもたらされたと受け取るべきだという意見がある。ただし、犯行動機の非政治化は犯行を正当化することにもなりかねない。イェンス・シュパーン保健相は事件後、国民に「パンデミック過激主義を拒否すべきだ」と呼び掛けている。社会民主党の次期首相候補者オーラフ・シュルツ財務相は、「(コロナ規制に反対する抗議グループ)QuerdeNkerはNに犯行を煽った共犯者だ」と指摘している。実際、連邦憲法擁護庁(BfV)トーマス・ハルデンワン長官は9月初めに、「コロナ否定者たちの過激な言動はいつか死者をもたらすだろう」と警告を発していた。

「犯人は加害者ではなく、被害者だ。非民主的なコロナ規制の中、犯人は自己防衛のために行ったものだ」と、陰謀説を信じる人々は互いに連帯感を強め、Nを擁護する。そして陰謀説は一層エスカレートし、コントロールから逸脱する。デジタルの空間で代替現実に生きる住人に見られる現象だ。

欧州各地で週末になるとコロナ規制反対デモが行われているが、そこに参加するコロナ規制反対者の中には「殺せ」、「政権を打倒すべきだ」と叫ぶ者も出てきた。抗議デモをする数は減少してきたが、その言動は過激化してきている。

昨年秋、ドイツの国立感染病研究所「ロベルト・コッホ研究所」(RKI)の建物に火炎物が投げ込まれ、ニーダーザクセン州では3月、コロナ規制に反対の1人の男が市庁舎に火炎瓶を投げている。最近では、ベルリンでコロナ・テストのテントが放火された、といった具合だ。イダー=オーバーシュタインのNの犯行は単独だが、実際は陰謀説に踊らされたコロナ規制反対者の連帯の中から生まれてきた犯行ともいえるわけだ。

ドイツ公営放送ARDのニュース番組ターゲスシャウでは事件後、Nの犯行はテロ事件か精神病者の蛮行かという議論を報じていた。極右過激主義を研究するシンクタンクに従事する学者は、「確率論的テロ(Stochastischer Terrorismus)」と呼んでいた。1人が過激化するのではなく、グループ全体が過激化する。そのグループの中の1人がある日、限界線を超え、武器を取り、殺人を犯す。これを確率論的テロというわけだ。代替世界で様々な陰謀説を吹聴してきたNが一線を超えて殺人を犯したように、だ。

代替世界の住人、Nに欠けている視点は、自分が殺害した20歳の従業員の世界だ。若い従業員は「店の中ではマスク着用を」とNに注意しただけだ。現実の世界で働いている20歳の青年をNの代替世界はどのように映し出していたのだろうか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年10月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。