円熟の境に至る

『ビジネスに活かす「論語」』(拙著)エピローグ『人生に後悔しないよう「今」を懸命に生きる』で、私は次の通り述べました――年をとるというのは、肉体的にはある種の衰えなのですが、精神的には円熟味(えんじゅくみ)を増していくことです。人間としての完成度が増し、心の平静安穏を保つことができるようになっていくのです。それは年齢を重ねることによって自然に起こってくる現象なのだと思います。

例えば、木喰上人(もくじきしょうにん)のに「まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまん丸」とありますが、彼方此方(あちこち)に角を立てていた人も年を取れば自然と角が取れ円(まる)くなって行くものです。孔子の「七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』為政第二の四)とは、ある意味で人間が完成しつつある状況を言っているのだと思います。

即ち、ずっと修養を積んできた人は段々「まん丸丸く」の方に近づいて行き、60歳、耳順(じじゅん)の年を迎える頃には孔子が言うように、人の言葉を聞いても特に反論することなく「ああ、そうか、そうか」と受け入れるようなるのです。そして70歳を超えたらば、正に思うように振る舞っても道を外れぬようなって行くということです。勿論それは飽く迄も、それまでの人生における修養が十分出来ている上での話であります。

人間として此の社会に生まれ、様々な形で揉まれ、酸いも甘いも嚙み分けられるようになり、ある種の円満な人格が自然と形成されて行く――それが一つの円熟の境になるのでしょう。年を取るに連れ色々なものが熟し、色々なものがバランスされて、円くなって行くのです。例えば、鰹にしても3年程度熟成させたものが美味しいわけで、やはり人間としても一つの滋味(じみ)と言うか、その人間の味わい深さが増して行くのだと思います。

私が私淑する安岡正篤先生は御著書『経世瑣言(総編)』で、次のように述べておられます--あの人は風韻がある、風格がある、というのはその人独特の一種の芸術的存在になって来ることであります。元気というものから志気となり、胆識となり、気節となり、器量となり、人間の造詣(ぞうけい)、薀蓄(うんちく)となり、それが独特の情操風格を帯びて来る。これ等が人物たるの看過することの出来ない、没却することの出来ない、根本問題中の根本問題であります。そういうものを備えて来なければ人物とは云えぬ。人物を練る、人物を養うということは、そういうことを練ることです。

円熟の境に達すれば、究極的には何かリズミカルになって、安岡先生が言う「風韻」を発するかの如き格調高い人間になれるのでしょう。そうした人物たるべく我々凡人は、日常生活の中で、日々自分の為すべき事柄に一所懸命取り組みながら、なお学び続け、正しい道を歩んで行こうと努めねばならないのです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年10月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。