選挙直前のネット空間で繰り返されている現象がある。それは、保守系と言っていいだろうか、政治系の情報発信にBANと呼ばれるコンテンツ排除、広告剥がしが頻繁化している。
YouTubeなどレギュレーションが厳密に規定されているとはいえ、各情報発信コンテンツは、かなり表現を意識してコンテンツ制作されているのが実態であり、それを逸脱しているとは思えず、踏み込んだ内容は限定公開などの方法が使われているが、それでも多くのコンテンツ規制事例を耳にする。
AIによる文言監視などとの説明も聞こえてくるが、ビフォーアフターで実験的に確認しているコンテンツの報告もあり、その様な単純な話では論理的な説明ができないのが実態である。
YouTubeなど民間プラットフォームで意図的な偏向行為、レギュレーションの操作が行われるとは思えない。勿論、反ワクチンなどの情報統制の要請に応える事はあるだろうが、自社で意思を持った統制を行う事は基本的にない。
総合的に考察すると、『報告』という形を取った、反対意見潰しとの疑惑が浮上するのだ。
ヤフコメ問題の実態
ヤフコメがネトウヨに占拠されていると一部で報じられて、社会的意義が無くなったという極論まで電波メディアで発信されている。
筆者自身もヤフコメは少々閲覧していた時期もある。その際の印象は、『あべがー』『ガースー』等、民主的に選ばれた人物に対する最低限のリスペクトもなく、呼び捨てで誹謗中傷する様な空間であった。その批判の中身も、事実に基づかない、感情的で非論理的な決めつけの内容が殆どで、しかも記事が上がった瞬間に、その種のコメントで埋め尽くされる印象が強く、冷静で健全な言論空間とは程遠い状態に感じていた。同時に、何故こうも素早く、しかも大量に発信できるのか、不思議で仕方が無かった。
余りの状態に、筆者も、事実のデータを示し、冷静な議論を呼びかけた事もあったが、議論どころか、意味不明の誹謗中傷の攻撃も経験している。決してまともな議論ができる空間ではなく、余りにも偏向し過ぎで、最近は閲覧もしていなかった。
そこに、『ネトウヨが占拠』との情報が耳に入り、極めて違和感があったが、確認して見ると、確かに昔とは少々違っている様に見えた。『ネトウヨ』の定義は不明だが、単なる感情的な誹謗中傷よりも、論理的なコメントもそれなりの数が見受けられる変化があった。この状態を『ネトウヨが占拠』と言うのならば、誹謗中傷のストレス発散の場に、少々冷静な意見発信が増える事を良い事と思わない、つまり感情論の持ち主は多様な意見に不寛容で、異論に対して攻撃的性向を持つ現れとしか思えないのだ。
それでも建設的な議論というよりは、両論のコメ主が並立している空間という印象だ。
反論・異論の公開討論が健全な社会を創成する
エコーチェンバーという閉鎖的な集団内での意見が増長していく現象をネット空間の特徴の様に巷では言われるが、電波系メディアの方がその傾向が強いのが実態ではないだろうか。両論併記を遵守するメディアはほぼ皆無だろう。放送時間等尺の問題もあるかもしれない、反論で収拾がつかない状態を嫌うのかもしれない。電波メディアでエコーチェンバー状態をもたらす重要な役割を、専門家やタレントコメンテイターが果たしている。画一されたコメントで埋め尽くされ、深く考えず、自身で1次資料も見ず、様々な意見に耳を傾けず、単なる感想を、番組の主張に沿って発言する存在が、あたかも世の中の主意見であるかのような印象操作で錯覚を視聴者にもたらす。
その中で、自民党総裁選が様々な意見を討論する重要さを思い出させてくれた。その後国会が開かれたが、やはり国会は誹謗中傷に溢れ、本質的な論争にはなっていない。
そういう意味で、ネットの言論空間が唯一、両論が存在し、討論できる場ではないだろうか。間違いなく両論は存在する。だが、現状残念ながら、お互いが交わり討論される様な事はそれ程多くない。本来、ヤフコメやSNSはその機能を担う筈なのだが異論をすぐにブロックして自己満足してしまう状態だ。
そういう意味で注目すべき事案が発生している。それは、ロンブー田村淳氏と作家竹田恒泰氏の選択的夫婦別姓における公開討論が行われる事である。
事の始まりは、田村淳氏が自身が賛成する「選択的夫婦別姓」に対してアンケートを取った所、自身の意見と異なる反対意見が多数を占めてしまい、あたかも反対意見を諭すように、反対して何の不利益があるのですかとアンケートを再度取った事に始まる。
個人がどの様な思想信条を持とうと、それを発信しようとそれは自由である。だから、最初のアンケートまでは何の問題も無く、その事実を受け入れれば良かった。ところが、自身の意見が通らない事に、異論を認めず、自身の影響力を行使して自意見に誘導する様なアンケートを実行した事で、多くの非難を受けた。
そして純粋に何が反対理由なのか、何が弊害なのか、それを知りたいだけ、公開討論を誰か受けてくれないかとの訴えに対して、竹田恒泰氏が名乗りを上げた形になって近々実現する様だ。
この『選択的夫婦別姓』は、イメージ先行でその中身があまり語られていないので広く周知されていないのが実態だろう。表向きは、結婚時の改姓によって多くの女性が不利益を被るという事由であるが、その実様々な弊害が伴う事が余り語られていない。最大の問題は戸籍制度の崩壊だろうし、子供の姓を決める為の係争が生じ得るのもリスクだろう。
勿論、戸籍制度には影響ない筈だとの意見も田村淳氏はお持ちの様だし、日本維新の会の様に戸籍制度を維持する選択的夫婦別姓を主張する意見もある。顕在化しない事象も含めてリスクがある事も主張しつつ、通称使用を拡大する事で本来の目的は達成できるとする自民党案(高市政調会長の総裁選時主張)が現実的であり、それでも不利益が生じる事例があれば対処していく事の方が現実的な落とし所とするのが竹田恒泰氏の立場だろうか。
『選択的夫婦別姓』に対して、「なんで自由に姓を選択できない」「男女差別だ」というイメージ先行の感情論は根本的に本質からずれているが、残念ながら現時点で巷の認知度はその程度である。田村淳氏にしても、そのレベルから推進派の意見だけを聞いて反応している様に書き込み内容を見る限り窺い知れる。是非、反対意見にも耳を傾け、視野を広げる機会にして欲しいし、影響力のある者同士の討論が公開される事で多くの人にも同様の周知が為されることを期待する。
あれだけテレビでゼロコロナ路線の主張を繰り返していた立川志らく師匠が、木村盛代氏と対談をした後、別人の様にゼロコロナはあり得ない様に180度変わられた様に、多くの人が異論に耳を傾け討論し、論理的な思考を取り戻すことが望まれるし、それが出来るのはネット空間だろうと確信している。