厳しいバッシングへの不快感

メディア先鋭化の時代は昨日今日に始まったわけではありません。見出しやタイトルをより刺激的にする方法はその昔、日本のタブロイド紙によく見られた手法で過激なタイトルがチラっとみえる駅の売店の新聞に思わず手を伸ばした方も多いでしょう。

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その後、ネットのタイトルから書籍のタイトルに至るまで、「タイトル一本勝負の時代」か、と思わせたのが今から10-20年ぐらい前でしょうか?かつて私のブログのタイトルもあるところに転載されると私自身が「おぉー!」っと驚くような見出しになっていて恥ずかしい思いを何度もしました。

ただ、人間、刺激を快感だと思い始めるとより強いものを求めるのが世の常で今度はユーチューブなどで出演者自身が強い口調、断言調の物言いになり始めます。こうなると好き嫌いが出てくるのですが、ごく狭いイシューに対して圧倒的な賛同を求め、人気を博すケースが増えています。ユーチューブの場合には再生回数を増やし、登録を増やすことで「お小遣いがもらえる」ため、より極端な言動を加速化しているとも言えます。

フェイスブックなどSNSのつながりは不特定多数の人がその人の特定部分のファンであることが重要でその人の全てを知っているわけでもなく、それを肯定しているわけでもないのです。これまでは画面越しの文字だったものが動画として発信することで自己アピールには極めて効果的であります。

この数日だけで気になった出来事。

  • 財務省の矢野事務次官の新型コロナ経済対策合戦をばら撒き合戦と評したことに高市早苗氏が「大変失礼な言い方」
  • 高橋洋一氏が「全然ウソ」「ぐちゅぐちゅ言っている」とかなりの口調で食って掛かった件
  • 立憲民主党の生方幸夫議員の拉致被害者について「日本から連れ去られた被害者というのはもう生きている人はいない」との発言とそれを受けて枝野氏が「大変驚愕し激怒」とした件
  • れいわ新選組の山本太郎代表が東京8区からの出馬に対して立民との調整不良で山本氏が撤回したことに東国原英夫氏が「混乱させるだけさせといて…国政選挙・政治自体を愚弄し舐めてるとしか言いようが無い」
  • 丸山穂高議員の不出馬表明に対してやはり東国原英夫氏が「やっと国会から消える」

といった内容を我々は普通に目にしているのですが、私は2つの点に注目しています。1つは言葉の刺激度。生の声や発言内容が極めて辛辣になっています。2つ目はネタ元とそれを受けたコメント発言者の立ち位置関係です。高市対矢野なら高市氏が上、生方対枝野は枝野氏が上、高橋、東国原両氏はメディアなどでの影響力が強く矢野氏、山本氏、丸山氏も太刀打ちできないのです。

これはホリエモンやひろゆき氏も同様のパタンで有名人や発言影響力をもつ人が刺激的発言をするとメディアが面白おかしく拡散するだけではなく立場上の相違から「圧勝の方程式」がそこに生まれてしまうのです。つまり、議論にならないのです。もちろん、上記の例についてお前は擁護する気か、と言われればひと括りにはできませんが、そこまでして葬り去らなくてもよいのではないかと思うのです。

敢えてご批判覚悟で擁護論を出してみましょう。矢野氏はブレーキ役だったはずです。タガが外れることを恐れた財務省のトップとしてドイツ財政のような保守性を持っていたわけです。国家が破綻することなどないのですがその言葉尻をとらえて「お前は間違っている」というのは狭義の捉え方と言えないでしょうか?

生方氏は日本は北朝鮮との外交について拉致問題の解決しか切り口しかないのか、という問題提起だったとしたらどうでしょうか?拉致被害者を軽視するつもりは毛頭ないのですが、どう見ても正面突破しか考えていない日本政府、外務省に「拉致問題解決のための戦略は他にないのかね?」と伺ってみたいのです。「坂の上の雲」で日本は満州の陸戦でロシアとどう戦ったか、お読みになるべきでしょう。

その上、矢野次官にしろ生方議員にしろ、たった一度の発言でその人の人生が終わるかもしれない怖さを見ると誰も物言いが出来なくなる、そんな社会すら起こりえるのです。

私は日本の罰点社会が今だに変わらず、今後も変わらないのだろうと思っています。かつて離婚した人をバツイチとかバツニといったのですがあれは昔のスタイルの戸籍では本当にバッテンが付くからです。(今は除籍とだけありバツはつきません。)ただ、日本の社会は減点主義で「どれだけ普通にして悪さをしなかったかを問う社会」という点では変わりありません。サラリーマンは功績もないけれどヘマをしなければ課長か次長ぐらいまでには行けるのと同じです。

自民党議員でコロナ禍で飲みに行って自民党を離脱した人たちが次回の選挙で公認をとれないそうです。(当選すれば仲間に入れてやってもよい、そうですが。)ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎先生はこんなところもやりにくさを感じていたのではないかと察しています。

北米社会は失敗しても立ち上がろうとする人には救いの手があるし、何度もやり直しをすることができます。むしろ失敗して強くなることを望んでいる感じすらあります。だけど、日本はこんな風に立場を利用して上から目線で叩き、メディアが面白おかしく報じれば面白い議論になることを封印し、思想の飛躍が出来なくなることに危惧を感じるのです。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年10月17日の記事より転載させていただきました。