「古き良き時代」のアメリカと私〜米国初体験の思い出(金子 熊夫)

金子 熊夫

Jitalia17/iStock

外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

今回は古い話で恐縮ですが、老人の昔話として気楽にお読みくだされば幸いです。

私の初渡米は、57年前、ちょうど前回(1964年)の東京オリンピックの直前で、日本では東海道新幹線が開通し、戦後の高度経済成長がピークに達しつつあった時期でした。

前年に外交官試験に合格していたので、外交官補という身分での最初の海外勤務でもありました。成田空港はまだ存在しなかったので、羽田空港から出発し、途中ハワイとサンフランシスコでそれぞれ2泊。現在のように10時間ほどの慌ただしい直行便と違って、祖国を離れ、はるばる異国に行くという感覚でした。

恵まれた2度目の学生生活

ようやくワシントンに着き、しばらく大使館であいさつ回りや雑務をした後、在外研修という名目で、英語力を磨き米国社会に溶け込むために2年間、大学で勉強することになり、マサチューセッツ州ボストン近郊のケンブリッジにあるハーバード大学法科大学院(ロースクール)を選びました。

ハーバード大学ロースクール卒業式(1966年6月)

ただ、いきなりハーバードに行くより、最初は日本人留学生がいない田舎町の小さな大学で学生生活をのんびり経験する方が良いということで、隣のコネチカット州にあるウェスレヤンという古い小さな大学で、新入生のクラスに編入してもらいました。ここは昔ウィルソン大統領(第28代)が教授として政治学を教えていたこともある名門大学で、金持ちや名家の子弟が比較的多く、キャンパスライフはとても快適でした。

米国の私立大学特有の「フラターニティ」(秘密クラブ的な組織)にも正式に加入し、友達同士文字通り裸の付き合いをしました。秋になると紅葉したツタがレンガ作りの古い校舎を包んで、まるで絵葉書のような美しいキャンパスが印象的でした。

週末はデートで長距離遠征

ハーバード時代の筆者、愛車のVWと

ただ、一つの大問題は、当時ウェスレヤンは完全な男子校で、女子学生が全くいなかったので、週末には100キロ以上も離れた女子大へデートを求めて遠征しなければなりません。だから自動車は必需品。私は外務省の先輩に保証人になってもらって、東京銀行から多額の借金をしてフォルクスワーゲン(ビートル)を新車で購入しました。普通の留学生からみれば大変なぜいたくで、うらやましがられましたが、この車のお陰で行動範囲が拡大し、その後全米を何度も駆け回り、見聞を広めることができました。

実は、運転免許を取って間もなく、秋の感謝祭休暇を利用して一気にフロリダ州までドライブしましたが、マイアミ市内に入ってすぐ、美しい景色に見とれて不覚にも事故を起こしました。幸い人身事故ではなく、双方の車に軽度の損傷がありましたが、保険で全額カバーでき、助かりました。車が修理されている間、豪華船でカリブ海のバハマ諸島観光ツアー(2泊3日)としゃれましたが、お陰で真っ青な海原と陽気なカリブ海諸島のクルーズを満喫できました。

キャンプ場でベトナム反戦歌

秋が深まると、コネチカットやマサチューセッツ州など、いわゆるニューイングランド地方は紅葉がとてもきれいで、日本の紅葉とは桁違いのスケール。夜は山中の湖畔でキャンプファイアーを囲んで、みんなで踊ったりフォークソングを合唱したり。当時は、ちょうどベトナム戦争が激しさを増しつつあった時期で、学生たちの間では反戦歌が大流行し、ジョーン・バエスの「We Shall Overcome」(勝利を我らに)やボブ・ディランの「Blowing in the Wind」(風に吹かれて)などを夜が更けるまで熱唱しました。

この年はちょうど大統領選挙の年で、民主党候補は、前年末に暗殺されたケネディの後継者のジョンソン大統領、共和党は超タカ派のゴールドウォーター上院議員で、ベトナム戦争の進め方や公民権問題について激しい論戦を展開していました。公民権運動のカリスマ的指導者、黒人のキング牧師の演説もこの時期に間近で何度か聞きました。この年のノーベル平和賞の受賞者で、当時まだ30代半ばでしたが、堂々たる貫録で、老成した風貌でした(2年後テネシー州で暗殺、享年39)。

ケネディ暗殺の余韻と後遺症

当時、ケネディの母校であるハーバードのキャンパスには、1年前の暗殺のショックの余波がまだ残っており、学生や教授たちは、もし彼が生きていたら、凡庸なジョンソンと違って、ベトナム戦争をどう処理しただろうか盛んに議論しました。3年前の大統領就任演説でケネディは「国が諸君のために何をなすかではなく、諸君が国のために何をなすべきかを問え」と名調子で呼びかけましたが、これに奮い立った学生の多くが学業半ばでベトナムに従軍し、戦死した者もいました。その意味において、ケネディの責任は重く、今思うと、随分罪作りな大統領だったと言わざるを得ません。

有名な日本学者のライシャワー教授はこの時期駐日大使として東京に行っていましたが、経済学者のガルブレイス教授ら著名学者の多くは反戦派で、ベトナムからの早期撤退を力説していました。週末には、アメリカ人の学友に誘われて、「べトナム戦争をストップせよ」「ジョンソンは辞任せよ」などと大書したプラカードを掲げ、ボストン公園あたりまで出かけてデモ行進に参加しました。まさか1年半後に自分自身がベトナムに転勤するとは夢にも思っていませんでしたし、元々ベトナム戦争には基本的に反対でした。ただし、日本政府は佐藤栄作首相の下、一貫して対米協力路線でしたから、反戦デモに参加したことは大使館には内緒でした。

ベトナム戦争反対デモ(ボストンにて1966年春 筆者撮影)

ロースクールでの研究生活

ハーバード・ロースクール(法科大学院)は、全米最古の歴史を誇り、その卒業生は政財界で活躍しています(オバマ元大統領もその一人)。日本人では明治時代に、小村寿太郎、金子堅太郎らもここで勉強しました。そのとき同級だったセオドール・ルーズベルト大統領(第26代)との友好関係が日露戦争外交、特にポーツマス条約交渉でプラスになったことは周知のところ。現在でも全米や世界各国から選りすぐりの秀才が集まり、恵まれた環境で勉学に励んでいます。

私自身は当時最も関心が深かった国際法を専攻することにし、バクスター教授(後に国際司法裁判所の判事)のゼミに所属し、その指導を受けました。卒論のテーマは「国際法と憲法から見た日本の安全保障の法的諸問題」で、米軍の駐留は違憲であるとした歴史的な「砂川事件」判決(1959年)にも触れました。今から思うと随分難しく微妙なテーマを選んだもので、まとめるのに苦労しました。雪の降る寒い夜も遅くまで研究室に閉じこもって、タイプライターを叩いたことを懐かしく思い出します。

ハーバード大学のメインキャンパス 中央は礼拝堂

ロースクールの授業の他には、政治学部のキッシンジャー教授の講義にも時々もぐりこんで聴講しました。この時期、彼はまだベトナム戦争には直接関わっていなかったようで、「外交政策と科学技術」というような独特のテーマで講義をしていました。後年、彼は、ニクソン政権下で安全保障担当大統領特別補佐官や国務長官を務め、ベトナム戦争の終結に向けて北ベトナムとの和平交渉を行ったり、中国に隠密裏に入り毛沢東と会談し国交正常化交渉で活躍したりしましたが、当時はまだそれほどの大人物には見えませんでした。

古き良き時代の最後

こう書いてくると、いかにもハーバードはアカデミックで堅苦しい大学だと思われるかもしれませんが、実は、私がいた頃のハーバードや地元のケンブリッジには、いわゆる「古き良き時代」(Good Old Days)のアメリカがあふれていました。

その雰囲気の一端が最もよく表れているのは、1970年公開の「ある愛の詩(うた)」(原題は「Love Story」)という映画です。ご覧になった方もいると思いますが、これは、ハーバードの男子学生(コネチカットの名門の御曹司)と、隣接するラドクリフ女子大の学生(イタリア系移民の娘)の清らかなラブ・ロマンスで、彼女は幸福の絶頂期に白血病で急死してしまうという悲しい物語。しかし、そこに描かれているのは、人種差別問題やベトナム戦争による対立でアメリカ社会が分断され、混乱する前の、まさに古き良き時代の健康で明るいアメリカ社会です。フランシス・レイのクラシック調の甘美なメロディとともに大変印象的な映画なので、ご覧になっていない方は、ぜひビデオでどうぞ。

そういう意味で私は、昨今の、とくにトランプ政権時代以後の暗い、ギスギスした感じのアメリカではなく、明るい希望と健全な良識に満ちた、おそらく最後のアメリカの「古き良き時代」を体験できてラッキーだったとしみじみ感じています。往時茫々なれどもこの60年近く昔の個人的経験が原点にあったからこそ、その後、外交交渉でさまざまな厳しい局面に立たされた時でも米国や米国人との信頼関係を維持してこられたのだと信じています。

(2021年10月18日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)


編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。