スペインから来た20世紀最後の行商人

まえがき

アゴラ言論プラットホームのご厚意にて今回私の執筆物を連載にて掲載して戴けることになった。初回は例外として、②からはできるだけ字数を少なくするように心がけた。その分、一部の内容が説明不足になっているやもしれない。ご了解戴くことをお願いする。

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この連載にて筆者のスペイン留学時代から企業を起こし、そして廃業するまでの半生を紹介することにしたい。如何に金銭的に富を築いたのかということを知るのを期待して読むのであれば最初から読まない方が良い。そのような富は稼いでいないからである。また著名人になったわけでもない。

スペインに若くして永住を始めた者が会社を設立して長年輸出の商いをして最終的にはその会社を廃業したというのが筆者のストーリーである。

筆者の会社は30年余り貿易事業に携わり、廃業するまでの25 年余りを日本市場をメインに輸出に取り組んだ。その営業を担った筆者は、「20世紀最後の行商人」であったことを自負している。

北は旭川から南は沖縄那覇まで市場を開拓してお客をつくって行った。その為にカタログ、サンプル、見本を積んで引っ張って行くカートは7-8本潰した。最後は80キロの重量に耐えるカートを見つけて滞日中に使っていた。

今ではPCやタブレットで営業できるが、筆者の頃は紙で作られた重いカタログを持参しての営業だった。カタログは紙でできている。今も、カタログでの営業の方がPCやタブレットの営業よりも遥かに有効だと感じている。20世紀のメンタルであるからそう思うのであろう。

 スペインへ留学

筆者がスペインに留学したのは1973年6月であった。語学に興味があったので英語学科を受験したが滑った。一浪している間に、英語は喋る人も多く希少価値は少なくなると思って、その次に大事な言語はスペイン語だ、と感じて最初に2校受験して2校とも合格した。それで他の大学を受験する意欲がなくなって関西外国語大学スペイン語学科に入学した。しかし、そこでの当時の語学教育システムでは卒業してもスペイン語を喋れるレベルにはなれないと感じて、3年生を終えた時点でスペインに自費留学することに決めた。親の脛をかじっての留学であった。

当時はまだ留学する学生は少なく、筆者のスペイン語学科から留学をしたのは筆者ともうひとりという二人だけであった。

1973年6月、パリから夜行列車でスペイン・マドリードに到着してペンションに泊まった。バルで食事をとったのであるが、疲れと食べ物に慣れていなかったのか腹痛を起こした。二日間寝ていた。その時に、当初行く予定であったサラゴサからバレンシアに変更。サラゴサに何となく魅力を感じなくなったからだ。他に行くところを決めるのにまだ日本人が多くいない比較的大きな都市ということでバレンシアを選んだ。しかも、地中海に面しているというのも魅力だった。あの時、腹痛を起こしていなかったなら筆者の運命は今とは違ったものになっていた。これも運命であろう。

当時のスペインでは大半の大学で外人を受け入れる学部があった。マドリードから夜行列車で朝8時半にバレンシア駅に到着。駅構内のキオスクでバレンシアの市街地図を購入してそれを頼りにリュックを背負ってテクテク歩いてバレンシア大学文学部まで行って入学手続きをした。最初はホームステー、そのあとバレンシアでの生活に慣れてからはスペイン人の大学生二人とマンションをシェアして住むようになった。その方が割安だったからだ。テレビは白黒テレビをレンタルで貸す電気屋から我々は借りた。

バレンシアで2年間の留学を終えて帰国。大学がまだ1年残っていたので4年生として復学した。スペイン語は日常会話は喋れるようになっていた。1年生の時から良くお世話になっていたスペイン人のヘルマン・アルセ先生にも再会した。先生は後年スペイン語辞書の校閲もされた方で亡くなるまでお付き合い戴いた。その辞書は現在も出版されている。

大学の掲示板での職探し

就職は商社で働くことしか関心がなかった。留学中に商社に関心を持つようになったことと、将来的には自分で商社を築きたいと望んでいたからだ。

卒業した大学は当時3-4流だった。求人に来る会社は中小企業が大半だった。そのような中で掲示板から選んで入社試験を受けた会社は5社。すべて中堅商社だ。どの会社でも最後の社長か専務の面接まで進んだ。何しろ大学での筆者の成績が優秀だったからである。CHU社(これ以後社名はイニシアルにて表示)の社長との面接では、「大学に残って先生になった方が良いのではないか」と言われたほどだった。

面接試験はスペインで買った背広を着て行った。そのズボンが当時流行の裾が広がっていたラッパズボンになっていた。Y社の部長級の一次面接では面接を終えて部屋から出ようとした時に部長の一人が、「おいおい、スペインではそのようなズボンをはくのかね」と質問して来た。筆者は内心「おいおいとは何事だ。まだこの会社の社員ではない。少なくとも白石君と呼ぶべきだろう」と感じて部長の方に向きを変え、開き直った気持ちで「大学を卒業してからもう3年経過しているので学生服はなく、着て来れるものはこれしかありませんでした。失礼しました」と素っ気なく回答した。その回答が部長は気に入ったようで、筆者を専務との面接に昇格させた。そのことを専務との面接の前に担当者から聞かされた。「あの回答がなかったら、あなたは最終の面接には選ばれていなかった」と言われた。しかし、最終的に採用されなかった。上智大学の生徒が選ばれたと後から聞いた。当時から上智大の外国語学部は高く評価されていた。外大としては1流大と3流大の差だ。仕方ないと感じた。

TB社では250人の内の最終13人の中に選ばれた。しかし、そこでは課長が「君の大学での成績は非常に優秀だが、大学が大学なのでこの成績は信頼できない」と言われた。この13人の中にバレンシアに同じく留学していた関大出身の井田恵介君もいた。私と同様に彼も採用されなかった。彼はその後中堅商社の社員として南米チリ勤務となり、その後転職などして結局サンティアゴ・デ・チレで永住する道を選んだ。しかし、残念ながら2年前に亡くなった。筆者にとって実に思い出の深い人物だった。筆者はチリで彼と再会できるのを望んでいた。因みに、このTB社は大手商社の系列商社であったが、その後倒産した。

著名な鉄鋼商社K社をクラスメートの一人と訪問した。入社試験を受けることができるか尋ねる為であった。受付でそれを尋ねた時の返事は「わが社は指定校の生徒だけ採用している」という回答だった。同伴したクラスメートは差別だと言って批判した。その彼がその後就職した会社は1部上場企業に成長し、彼は社長にまでなった。