敬するから恥ずる

アゴラにある記事『嫌われるおじさんと慕われるおじさんの差は「距離感」』(21年8月27日)は、冒頭次のような言葉で始められます――ビジネスをしていると、自分より年の若い人とコミュニケーションを取る機会がある。40歳を間近に控えた自分はまごうことなきおじさんなわけだが、特に若い人とのコミュニケーションにおいて気をつけているのは相手との「距離感」である。

そして筆者は「思うに、距離感がおかしな人の共通点として相手へのリスペクトが欠如しているのである。相手が自分より格下だと判断して態度を変えてしまう。そのような稚拙なメンタリティこそが、嫌われるおじさんを作り出している元凶ではないだろうか」と結んでいます。

私の基本的な考えとして出発点が人を好き嫌いで見ないとは、半年程前『好悪の情というもの』と題したブログでも述べておいた通りです。好きとか嫌いとかは関係なしに先ず一人間として互いに尊重し合い、付き合いを始めれば良いと考えています。

ある「おじさん」が人間的・道徳的に全く駄目で、「相手へのリスペクト」が著しく欠如し続けている場合に限っては、御気の毒様としか言いようがありません。私は、基本姿勢としては、全ての人が天命を授かって生まれてきて誰一人世に無駄な人はいないわけで、どんな御縁も大切にし、「美点凝視…努めて、人の美点・良所を見ること」を徹底すべきだと思っています。

そして相手の素晴らしいと思う部分を素直に学び、自分が劣っていると思えばそれを「恥」と思いリカバーするために努力する、といったことの積み重ねで良いのではないでしょうか。そもそもが、先入観で嫌いという感情があればその人からは何も得られないでしょう。また、同じ人であっても日々変化していることを忘れてはなりません。

」とは、天が人間のみに与えてくれた心の発現です。動物は「恥」というものを持っていません。此の「恥」及び一対を成す「敬」こそが、人間を伸ばして行く上で大きな働きをするのです。明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「敬」と「恥」につき次のように言われています――敬するというのは、より高きものに対する人間独特の心で、敬するから、至らない自分を省みて恥ずる、これは陰陽の原理であります。敬するから恥ずる、恥ずるから慎む。戒める。この恥ずる、慎む、戒めるということが主体になる時に道徳というものができるのです。

何れにせよ、普通に人間生活を営んでいる中で何らかの御縁が生じたならば、基本そこに好悪の感情を挟まぬ方が良いのではないかと思います。仏教では「多逢聖因…色々な良縁を結んで行くと、それが良い結果に繫がる」ということが言われますが、様々な人に御縁を頂くことで、正に「縁尋機妙…良縁が良縁を尋ね発展して行く様は、誠に妙なるものがある」にも繫がって行きます。そうした機妙な状況を主体的に創り上げるべく、我々は「敬」と「恥」に根差し日々事上磨錬して自身の人間力を高め続けるのです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年11月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。