やはり、一寸先は闇の世界である。政治の世界では、必ずしも、1+1が2になるとは限らない。足し算が引き算となることもある。先月そうアゴラに寄稿したが、まさに今回そうなった。
11月12日、立憲民主党の枝野幸男代表(当時・以下略)が先の衆議院選挙の結果を踏まえ、引責辞任した。同党は党員らも参加する形での代表選挙を同月19日に告示、同月30日に投開票が行われる。最大の論点は日本共産党との協力関係となろう。
これに先立つ11月9日、翌10日の特別国会の召集を前に、立憲民主党は両院議員総会を開き、枝野代表が「多くの仲間が議席を得られず、議席を減らすという、たいへん残念な結果となりました。この結果は、まさに全力を尽くしただけに、私自身の力不足そのものである」と述べ、12日の特別国会の閉会後に、代表を辞任する考えを示していた。
この日、福山幹事長も「選挙前の議席を確保できなかったことについて、日本共産党との連携が、どのように影響したのかなどを科学的に分析し、新しい執行部に引き継いでいく」方針を説明した。
投開票日(10月31日)夜の民放テレビ番組では、スタジオ出演していた橋下徹弁護士から、厳しく責任を追及され、進退を問われても、なお続投する姿勢を見せていたが、結局その2日後に辞任を表明。さらにその10日後、正式に辞任の運びとなった。
やや遅きに失したとはいえ、潔く自ら、出処進退を判断し、決断した格好ではある。枝野前代表が自認してきたように、彼が「ゼロから作り上げた政党」でもある。さぞや、残念なことであったろう。
その一方、まるで潔くない連中もいる。
日本共産党である。枝野代表は潔く引責辞任したが、日本共産党の志位和夫委員長は「責任を痛感」しつつも、続投を決め込んで憚らない。
正式な肩書は、日本共産党中央委員会幹部会委員長。1990年から2000年までは書記局長を務め、2000年11月24日に、5代目の委員長に就任した。以来、党大会の度に続投が決定され、今日に至る。
ちなみに歴代委員長で、21年間もの間、在任しているのは志位委員長だけである。共産党と名のつく政党の指導者は、どの国でも、よほどトップの座がお好きとみえる。
以前、アゴラ上で指摘したとおり、去る9月30日、枝野代表と志位委員長が国会内で会談し、日本共産党が「合意した政策を実現する範囲での限定的な閣外からの協力」などで合意していた。
この党首会談では、枝野代表から10月4日の首相指名選挙での投票要請もあり、志位委員長は「こういう内容が合意された以上、当然、枝野代表に投票します」と答え、そのとおりの投票結果となっていた。
同様に、先の衆議院選挙を受けた第206特別国会が、11月10日に召集され、総理大臣指名選挙が行われた結果、岸田総理大臣が297票、立憲民主党の枝野代表が108票、日本維新の会の片山共同代表が41票と(以下略)、岸田総理が与党側の過半数の票を得て、指名された。
それはよいが、上記のとおり2日後の12日に辞任する枝野代表に、立憲民主党はもとより、日本共産党の国会議員も「自主的判断として」(志位委員長)そろって投票したことになる。
国会議員としての貴重な一票を、ゴミ箱に捨てたようなものである。自分たちを国会に送り出してくれた有権者に対して失礼ではないだろうか。
潔く辞任した立憲民主党代表と、しぶとく留任する日本共産党中央委員会幹部会委員長。
この度の対称的な人事は、後者が本質的には今なお「労働者階級の前衛政党」(旧規約)であることを如実に表したとも言えよう(詳しくは月刊『Hanada』22年1月号拙稿)。